連続テレビドラマ『北の国から』(フジテレビ系)で知られる脚本家・倉本聰さんの自伝エッセイ『見る前に跳んだ 私の履歴書』(日本経済新聞出版社)が出版された。
81歳の現在も旺盛な創作活動を続けている倉本さんは、草創期からテレビに関わり、数々の名作を生み出してきた。この本では、幼少時代の思い出、怒涛のドラマ黄金時代、富良野塾、演劇、そして自然と環境までを縦横に語っている。
倉本さんの代表作である、『北の国から』の放送開始から35年。あらためて、この国民的ドラマの意味を考えてみたい。
(以下、敬称略)
衝撃的だった『北の国から』の登場
それは、過去のどんなドラマとも似ていなかった。思わず、「なんだ、これは?」と声が出てしまった。1981年10月9日(金)の夜、『北の国から』の第1回目を見終わった時のことだ。
この日、午後10時の同じ時間帯にドラマが3本、横並びだった。1本目は前月から始まっていた、山田太一脚本の『想い出づくり。』(TBS系)。もう1本は、藤田まことの主演でお馴染みの『新・必殺仕事人』(テレビ朝日系)である。
どちらもドラマの手練れたちによる優れた仕事で、すでに高い視聴率を叩き出していた。『北の国から』はそこへ遅れて参入してきたわけだが、あらゆる面で“異色”のドラマだったのだ。
固定ファンが多い『必殺』もさることながら、『想い出づくり。』が話題になっていた。当時では結婚適齢期だった24歳の女性たちが、“平凡な日常生活”から脱却しようと、都会を彷徨する物語だ。演じるのは森昌子、古手川祐子、田中裕子の3人。
その秀逸な設定と彼女たちの掛け合いの妙は、2年後のヒット作『ふぞろいの林檎たち』に通じるものがある。ちなみに、脚本の山田太一、演出の鴨下信一、プロデューサーの大山勝美という『ふぞろいの林檎たち』の座組みは、『想い出づくり。』と同じだ。
一方、『北の国から』の主演俳優は、田中邦衛である。60年代から70年代にかけての田中は、加山雄三の映画『若大将』シリーズや『仁義なき戦い』シリーズでの脇役という印象が強い。
ドラマの主役といえば、スターだったり二枚目だったりすることが当たり前の時代に、いきなりの「主演・田中邦衛」。多くの視聴者は戸惑ったはずだ。
そして肝心の物語も尋常ではなかった。東京で暮らしていた黒板五郎(田中邦衛)が、妻(いしだあゆみ)と別れ、子供たち(吉岡秀隆、中嶋朋子)を連れて、故郷の北海道に移住するという話だ。住もうとする家は廃屋のようなもので、水道も電気もガスもない。
第1話で、純(吉岡)が五郎に、「電気がなかったら暮らせませんよッ」と訴える。さらに「夜になったらどうするの!」と続ける。五郎の答えは、純だけでなく、私を含む視聴者を驚かせた。五郎いわく、「夜になったら眠るンです」。
実はこの台詞こそ、その後20年にわたって続くことになる、ドラマ『北の国から』の“闘争宣言”だったのだ。夜になったら眠る。一見、当たり前のことだ。しかし、80年代初頭の日本では、いや東京という名の都会では、夜になっても活動していることが普通になりつつあった。“眠らない街”の出現だ。
『北の国から』と80年代
やがて「バブル崩壊」と呼ばれるエンディングなど想像することもなく、世の人びとは右肩上がりの経済成長を信じ、好景気に浮かれていた。仕事も忙しかったが、繁華街は深夜まで煌々と明るく、飲み、食べ、歌い、遊ぶ人たちであふれていた。日本とは逆に不景気に喘いでいたアメリカの新聞には、「日本よ、アメリカを占領してくれ!」という、悲鳴とも皮肉ともとれる記事まで掲載された。
そんな時代に、都会から地方に移り住み、しかも自給自足のような生活を始める一家が登場したのだ。これは一体なんなのか。そう訝しんだ視聴者も、回数が進むにつれ、徐々に倉本が描く世界から目が離せなくなる。そこに当時の日本人に対する、怒りにも似た鋭い批評と警告、そして明確なメッセージがあったからだ。
倉本自身の言葉を借りよう。放送が続いていた82年1月、地元の北海道新聞に寄せた文章である。
「都会は無駄で溢れ、その無駄で食う人々の数が増え、全ては金で買え、人は己のなすべき事まで他人に金を払い、そして依頼する。他愛ない知識と情報が横溢し、それらを最も多く知る人間が偉い人間だと評価され、人みなそこへ憧れ向かい、その裏で人類が営々と貯えてきた生きるための知恵、創る能力は知らず知らず退化している。それが果たして文明なのだろうか。『北の国から』はここから発想した」
80年代は、現在へとつながるさまざまな問題が噴出し始めた時代だった。世界一の長寿国となったことで到来した高齢化社会。地方から人が流出する現象が止まらない過疎化社会。何でも金(カネ)に換算しようとする経済優先社会。ウォークマンの流行に象徴される個人化・カプセル化社会等々。
それだけではない。「家族」という共同体の最小単位にも変化が起きていた。「単身赴任」が当たり前になり、父親が「粗大ごみ」などと呼ばれたりもした。また「家庭内離婚」や「家庭内暴力」といった言葉も広く使われるようになる。
『北の国から』はこうした時代を背景に、視聴者が無意識の中で感じていた「家族」の危機と再生への願いを、苦味も伴う物語として具現化していたのだ。
82年3月末に全24回の放送を終えた後も、スペシャル形式で2002年まで続くことになる『北の国から』。その20年の過程には、大人になっていく純や蛍の学びや仕事、恋愛と結婚、そして離婚までもが描かれた。フィクションであるはずの登場人物たちが、演じる役者と共にリアルな成長を見せたのだ。
また彼らと併走するように、視聴者側も同じ時代を生き、一緒に年齢を重ねていった。それはまた、このドラマが20年にわたって、常にこの国と私たちの状況を“合わせ鏡”のように映し続けたということでもある。あらためて、空前絶後のドラマだったのだ。
(ビジネスジャーナル 2016.06.10)
”蛍”の中嶋朋子さんと