書評界(?)の巨匠、<狐>こと村山修さんが亡くなったのは2006年のことだ。もう10年が過ぎたわけだが、今でも時々、本棚から取り出しては読んでいる。
たとえば、「単行本未収録書評を増補」して出された、『もっと、狐の書評』(ちくま文庫)も、そんな一冊だ。
「日刊ゲンダイ」に<狐>名義で書かれたものは、その後、何冊もの単行本になっている。この本では、それらから選抜した書評に「未収録もの」を加え、「オリジナル編集」しているのだ。その数、150本。
基本的には、それぞれ約800字1本勝負だ。決して長くはない。いや、短いはずなのに、かなり”読みで”がある。中身が濃い。
それは、本の内容を凌駕するような、山村さんの見識や博識が背景にあるからだ。もっと乱暴にいえば、選ばれた本、それ自体がもつ価値以上のものが、山村さんによって付加されたような・・・。
いつも、<狐>の書評の「書き出し」に唸っていた。どきどきした。書評の、その先が読みたくなった。
「読めども読めども読み切れない」 (山口昌男『「敗者」の精神史』)
「おそろしい古典である」 (小西甚一校注『一言芳談』)
「大学紀要的(アカデミック)ではない。ずっと実践的(プラクティカル)」 (田中優子『近世アジア漂流』)
「伝記文学の粋である」 (ツヴァイク『ジョゼフ・フーシェ』)
山村さんの書評を読んで、そこで取り上げられている本を、ばりばり読んだかといえば、なかなかそうはいかない。
ジャンルや内容が、興味・関心から遠いものもあれば、難しそうで敬遠したくなるものも多い。でも、読みたくなったし、読んだような気なった。そういう本の存在を知るだけでも収穫だった。
この本の中の、初収録の文章の、次のような一節が好きだ。
「書評者は伝達者だと思う。
肝心なのは、
本を閉ざして自己主張することではなく、
本を開いて、
そこに書かれていることを
伝えることのはずです」
<狐>の書評は、まさに、そのようにして、ここにある。