昨年12月30日、大瀧詠一さんが亡くなりました。
享年65。
解離性動脈瘤(りゅう)だったそうです。
40年前、大学生の頃。
当時、田園調布にあった友人の杉田君の家で、初めて「はっぴいえんど」のアルバムを聴かされた時の衝撃を思い出しました。
関連記事がいくつか出ましたが、朝日新聞に掲載された内田樹さんのものが一番フィットしました。
ただ、内田さんのブログによれば、朝日の文章は短縮版だったそうで、オリジナルを転載して、あらためて大瀧さんのご冥福をお祈りします。
合掌。
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大瀧詠一師匠を悼む
朝日新聞から依頼があって、大瀧詠一さんの追悼文を書いた。
字数の関係でショートヴァージョンが紙面には掲載されたので、ブログにはオリジナルを掲げておく。
音楽や映画について、信じられないほど広く深い知識を持っているだけでなく、ふつうの人は気づかないものごとの関係を見出す力において卓越した方でした。2歳違いですが、久しく「師匠」と呼んでいました。
ツイッターで大瀧さんが手がけた曲の元ネタについてつぶやいたら、数分のうちに「この二つを結びつけたのは地球上で内田さんが最初の人です」と返信をいただきました。うれしかったですね。大瀧さんの元ネタをみつけるのは、ナイアガラーにとって最高の勲章だからです。
一度聴いた曲はすべて記憶しているのかと思うほどの桁外れの記憶力でした。無人島に1枚だけレコードを持って行くなら何にするかという雑誌のアンケートで、大瀧さんは『レコードリサーチ』というカタログの1962〜66年を持って行くと答えました。「全曲思い出せる」から、「ヒットチャートを頭の中で鳴らしながら一生暮らす」ことができる、と。
はっぴいえんどは、米国のロックバンド、バッファロー・スプリングフィールドをドメスティックに解釈して「日本語のロック」を作り出したのですが、代表曲の「春よ来い」は地方から都会に出てきた青年の孤独と望郷の念を歌う、春日八郎や三橋美智也にも通じる楽曲でした。少年時代から、ポップスやロックだけでなく、ジャズも民謡も、あらゆる音楽を身に浴びてきたことが、大瀧さんの血となり肉となっていたのでしょう。
長く新曲を出していませんでしたが、ラジオには定期的に出演して、「ラジオ番組がニューアルバムなんだ」と話していました。ですから、『日本ポップス伝』と『アメリカンポップス伝』、山下達郎さんとの『新春放談』を録音したものは何十回聴いたかわかりません。車に乗っている時間はほとんどカーステレオから流れる大瀧さんのDJを聴いて過ごしていたわけですから、僕が人生で一番たくさんその人の話を聴いたのは、間違いなく大瀧さんです。
師匠が残してくれた音楽とラジオ番組はこれからも繰り返し聴くことができますが、あの話の続きを聴くことがもうできなくなると思うと、失ったものの大きさに愕然とします。
(内田樹の研究室 2014年01月03日)