「週刊新潮」の書評欄に書いたのは、以下の本です。
一橋文哉
『人を殺してみたかった~名古屋大学女子学生・殺人事件の真相』
角川書店 1620円
今年6月、神戸連続児童殺傷事件を起こした「酒鬼薔薇聖斗」が、「元少年A」の著者名で手記『絶歌』を出版した。被害者遺族はもちろん、自身の家族や支援者などの反対を押し切っての強行出版だった。
出版や表現の自由は何人にも保障されており、守られなければならない。ただ内容に関して倫理観や道徳心に照らしての判断は別個の問題だ。版元は「少年犯罪を考える上で大きな社会的意味がある」と大義名分を掲げていたが、果たしてそうだったのか。今も疑問が残る。
また、この手記を手にした人の多くは共通の疑問への答えを求めていたはずだ。「なぜこんなことを?」である。しかし、読み終えても疑問は氷解しなかった。むしろ増したかもしれない。たとえ本人であっても、その答えを知っているとは限らないのだ。
本書が扱っている事件は昨年12月に発生した。名古屋大学理学部1年の女子学生が、自分のアパートの部屋で77歳の主婦を殺害したのだ。手斧で殴りつけた上での絞殺だった。
この女子学生と被害者は知り合いだったが、両者の間にトラブルはなかった。金銭が目的でもなく、何らかの怨恨があったわけでもない。犯行後は主婦の遺体を浴室に放置し、その所持品も収納スペースに放り込んだままだった。全てが雑で無造作だ。
著者は、この不可解な殺人者がたどってきた19年の軌跡を丹念に検証していく。祖母による、甘やかし過ぎと放任主義。酒鬼薔薇事件の少年Aに対する憧れと崇拝。愛読書となった、英国の連続毒殺魔について書かれたノンフィクション。そして、硫酸タリウムなど毒劇物を含む薬品の収集。少女は、徐々に“その日”へと近づいていく。
驚くのは、今回と酷似した過去の凶悪事件の存在だ。あたかもトレースしたかのような犯人の人物像と経緯に戦慄を覚える。それはまた著者が到達した「なぜこんなことを?」の核心部分に触れる瞬間だ。
小川 恵 『指輪の行方~続・小川国夫との日々』
岩波書店 1944円
作家の妻とは如何なる存在か。日常を共にする者の目に作家はどう映るのか。さらに一人の女性として体験した修羅も、美しく、かつ大胆に告白したエッセイだ。第7回小島信夫文学賞・特別賞を受賞した前著『銀色の月』に続く、小川文学ファン必読の一冊。
マイケル・ハリス:著、松浦俊輔:訳 『オンライン・バカ』
青土社 2376円
今や当たり前になったネットの常時接続状態。それが我々の日常にどんな影響を及ぼしているのか。カナダ在住のライターであり編集者である著者が、仕事から性関係までを変えてしまう「機械」の深層を探る。ニコラス・カー『ネット・バカ』も参照したい。
大塚信一 『宇沢弘文のメッセージ』
集英社新書 799円
宇沢弘文が亡くなったのは昨年9月。ノーベル経済学賞の有力候補として何度も名前が挙がったが、本人が目指したのは「社会を本当によくすること」だった。自動車の社会的費用、地球温暖化、教育など難題に取り組み続けた。名編集者による宇沢思想入門の好著。
(週刊新潮 2015.10.29号)