本のサイト「シミルボン」に、以下のコラムを寄稿しました。
https://shimirubon.jp/users/1672595
「叱ってくれる人」がいる幸せ
――川村二郎さんの本
元「週刊朝日」編集長の川村二郎さんは、私にとって、言葉と文章の師匠の一人である。いや、こちらが勝手に師匠にしているのだが(笑)。
何より有難いのは、言葉と文章に関して筋金入りの頑固者である川村さんが、著作を通じて「叱ってくれる」ことだ。
人は、年齢を重ねると、だんだん叱ってもらえなくなる。
川村さんのような<もの言う先達>の存在は、本当に貴重なのだ。
● 『社会人としての言葉の流儀』(東京書館)
言葉と文章に関して、いい意味で「筋金入りの頑固者」である川村さん。
今年8月に上梓された『社会人としての言葉の流儀』(東京書館)でも、「生きざま」「こだわり」といった言葉を無神経に使うことを戒めている。また、「思う」と「考える」と「感じる」を正確に使い分けることの大切さも教えてくれる。
この本は、いわば正しい言葉を学ぶ日本語読本だ。熟読して、学ぶべし。「言葉は人なり」なのだから。
● 『孤高~ 国語学者大野晋の生涯』(集英社文庫)
評伝の面白さは、主人公の実人生と人物像だけではない。誰が書くかも重要だ。
国語学の巨人と呼ばれる大野晋だが、日本語のルーツをタミル語だとする新説に対して、当時の学会やマスコミから強い反発が起きた。同時に、敵をつくることも恨みを買うことも意に介さない大野に反感を覚える者も多かった。
川村さんは、記者として「人間・大野晋」の造形に挑み、成功している。ここに描かれているのは、第一級の研究者であり、語り継がれるべき日本人の一人だ。
さらに、言動にはだれの目にも明らかな目的があるべきだと考え、思い立ったらただちに行動し、新しいことに挑戦し続けた一人の男の姿である。
● 『夕日になる前に~だから朝日は嫌われる』(かまくら春秋社)
この本は、川村さんが愛してやまない”故郷”朝日新聞への痛烈な諫言と、記者としての貴重な体験を綴ったエッセイ集である。
たとえば夕刊一面のコラム「素粒子」。文化勲章をめぐる「勲章もらうには何より長生きが大事」の一文に著者は呆れる。受賞者は音楽評論の吉田秀和であり、瀬戸内寂聴なのだ。
また近年、同じコラムが、時の法務大臣を「死に神」と書いた。川村さんは、“文章のわかる”幹部がいないと嘆息する。
逆に、いや、だからこそ本書で紹介される司馬遼太郎、海老沢泰久、さらに涌井昭治など名記者の“言葉と文章”に対する真摯な態度に打たれる。現役の新聞記者、そして記者を目指す若者たちも必読の一冊だ。
● 『いまなぜ白洲正子なのか』(東京書籍)
白洲正子と聞いて、すぐ分かる人、「え、誰?」という人、それぞれいるはずだ。それと、「よく知らないけど気になっていた」という人も多いだろう。この本は、そのいずれにもオススメできる<白洲正子入門編的傑作評伝>である。
白洲正子については、たとえば「白洲次郎の奥さん」という説明もできる。戦後、吉田茂の懐刀としてGHQと対峙した男、白洲次郎。数々の伝説に包まれた<風の男>、白洲次郎だ。
その白洲次郎の妻だった正子は、明治時代に樺山伯爵家のお嬢さんとして生まれた。今でいう幼稚園の頃にから能に親しむ。大正時代にアメリカ留学。昭和4年に白洲次郎と結婚。戦中・戦後の昭和、さらに平成を生きた88年の生涯。
文筆家として、能はもちろん、西行、匠の技など、日本の古典、日本の美をめぐる多くの本を書いている。美の優れた鑑賞者、美の目利きでもあった。
白洲正子の著作の一つに、彼女が自らの”師匠”について書いた『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮社)がある。この本のタイトルはそこからきた。そして、「いまなぜ白洲正子なのか」という問いに、見事に答えているのだ。
正子の生い立ち(これが凄いのだが)。時代背景を思うと信じられないような幼少期と娘時代。そして白洲正子となってからの日々。
特に、上記のジイちゃんこと青山二郎や小林秀雄などに接する(というより修行だ)様子は、読んでいて、美や文化について思うこと多く、また決して届かぬ世界への憧れに似た感情が沸き起こる。
川村さんは前述したように、「週刊朝日」の編集長や朝日新聞編集委員などを歴任した人であり、現在は文筆家だ。もちろん白洲正子とも交流があった。随所に、川村さんが接した”実物の正子”が登場し、そのときの正子の”生の言葉”を紹介しているのも、この本の嬉しいところだ。
「文化とは日々の暮らしよ」
「明日はこないかもしれない。そう思って生きてるの」
「井戸を一つ掘り当てたと思ったら、別のところも掘るのよ」
現実には聞いたことのないはずの正子の声が聞こえてきそうだ。
● 白洲正子との遭遇
実は私自身も、たった一度だけ、白洲正子を<目撃>したことがある。会ったのではなく目撃。見かけたのだ。
それは赤坂のそば屋さん「赤坂砂場」でのことだった。ここの「ざる」が大好きで、ときどき行っていたのだが、いつものように食べ終わり、お勘定のお釣りを待つ間、広くない店内をふと見回したら、テーブルの一つに白洲さんがいた。
両側には、一緒にいらしたらしい女性がいて、白洲さんは(じっと見たりはしなかったのでよく分からないが)「ざる」か「もり」かを食べているところだった。
かつて、戦後の占領期における吉田茂を追ったドキュメンタリーの制作に参加していた。その番組で白洲次郎を知り、白洲正子を知った。そして、こんな人たちがいたことに驚いた。
当時、20代後半だった自分にとって、白洲正子は、いわば”歴史上の人物”だったと言っていい。その女性が、目の前でおそばを食べている。ほんの一瞬だけ見た光景は、信じられないような、ちょっと幸運のような、不思議な感じだったことを覚えている。
白洲さんを目撃してからも、数え切れないほど「赤坂砂場」には通ったが、二度とその姿を見つけることはなかった。
この本で、白洲正子という人がなぜ気になるのか、知りたくなるのか、読みたくなるのか、が分かってきた。川村さんは、こんなふうに言っている。
それは、
多くの日本人にとって
「羅針盤」であり、
「モデル」であり、
「一陣の風」であり、
ときに「精神安定剤」であるからだ。