「週刊新潮」に、以下の書評を寄稿しました。
国民的辞書・広辞苑 その編者の軌跡
新村 恭 『広辞苑はなぜ生まれたか~新村出の生きた軌跡』
世界思想社 2484円
新村出(しんむらいづる)は『広辞苑』(岩波書店)の編者として知られている。しかしその名前はともかく、どのような人物だったのかを知る人は少ないのではないだろうか。本書は孫でフリーエディターの著者が記した、新村に関する初の本格評伝だ。
大きく三部構成となっており、まず「新村出の生涯」の章でその歩みを知る。1876(明治9)年生まれの新村は元々言語学者だった。東大助教授を経て京大教授。キリシタン語学や語源語史の研究で実績を残している。また25年にわたって京大図書館長を務め、学問や教育に対するリベラルな姿勢から利用者の自由度を高めていった。
次の「真説『広辞苑』物語」では、あの国民的辞書が編まれた過程をたどる。『広辞苑』第一版の刊行は1955(昭和30)年だが、新村はそれ以前に『辞苑』(博文館、35年)という名の国語辞典の編集に携わっていた。その改訂版に着手していたところ、戦局の悪化で出版が不可能となる。戦火を免れた校正刷をもとに制作されたのが『広辞苑』だ。
もちろん辞書作りは一人ではできない。広範なジャンルの執筆者たちの協力、岩波書店の人々の支援、そして新村の次男でフランス文学者、言語学者だった猛の存在も大きい。著者は残された日記や膨大な原稿などを踏まえ、新村の人物像と仕事の実相を明らかにしていく。浮かび上がってくるのは権威ある学者というより、「言葉」を真摯に愛し続けた一人の学徒の姿だ。
最後の「交友録」には、親しかった歌人・川田順が登場する。川田は弟子だった女性との「老いらくの恋」で騒がれた人物。しかも新村にとって初恋の人だった徳川慶喜の娘・国子が結婚後、不倫関係に陥った相手が川田だったのだ。孫だからこそ率直に書けるエピソードである。
新村が亡くなったのは67年8月。没後50年の節目に上梓された本書で『広辞苑』への親近感が増した。
ジャック・アタリ:著、林昌宏:訳
『2030年 ジャック・アタリの未来予測』
プレジデント社 1944円
思想家、経済学者などの顔をもつ、現代を代表する知性による未来への処方箋だ。政治と経済の自由に基づく社会システムの機能不全。民主主義の空虚化。怒りの蔓延などを踏まえ、アタリは「個人」が変わるべきだと説く。10段階の変化を経た先にある行動とは?
久坂部羊 『院長選挙』
幻冬舎 1728円
国立大学病院の頂点に立つ天都大学附属病院。前病院長の死により、院長選挙が実施される。候補者は4人の副院長。いずれも性格破綻の妖怪ともいうべき人物ばかりだ。清浄であるはずの医療現場で、駆け引きと陰謀が渦巻く“笑う大選挙戦”が展開されていく。
(週刊新潮 2017年10月5日号)