倉本聰 ドラマへの遺言
第9回
役者の仕事はインナーボイスを
どれだけさらけ出せるか
〈倉本脚本は一言一句変えてはならない〉という業界伝説は今も根強く残っている。だが、正しくは「俺が書いたホン(脚本)以上にしてくれるなら変えてくれ」だと倉本氏。それは脚本家としての矜持であり、役者や演出家への熱い挑発でもある。
倉本 シナリオライターにも2つの仕事があると話しましたが、テレビの演出家の仕事にも2つある。ひとつは役者に演技をつけて動かす、〈演技演出〉と呼ばれるものです。もうひとつが〈中継演出〉という仕事。
碓井 演技演出は芝居に関することで、中継演出というのは役者が演じている「場」を映像化するということでしょうか。テレビ草創期はドラマも全部生放送でしたから、まさにスタジオからの中継だったわけです。
倉本 演劇の知識もあまりない助監督たちが監督のカット割りにならって、役者の演技を合わせちゃう。これは嘘ですよね。
碓井 どういうことですか。
倉本 たとえば、この打席でイチローがメジャー通算3000本安打を打つからアップを撮ったり、カット割りを多用したり、揚げ句の果てにヒットの飛んでくる箇所にカメラを構えていて、球が飛んできた途端に音楽をかぶせたとするでしょう。すると、その途端に野球中継ってのは面白くなくなってしまいます。何が起こるか予測不能だから面白いわけですから。芝居も同じで、あくまで演技演出が先にあって、その次に事態が起こって、それを中継演出するのが本来のあるべき演出の仕事だと思うんですね。
碓井 ドラマの生命線は演技であり、芝居であると。それをどんな映像で、つまりどんなカット割りで見せるかということ以前に、しっかりと芝居を演出することが重要なんですね。ところが、演技をつけることに関して、演出家自身が素人だったりすることが多い。
倉本 僕も富良野塾というのをやって、26年間、役者を指導してきましたが、苦労の連続でした。スタニスラフスキー(ロシア・ソ連の俳優、演出家)から米国のメソッドをベースに教えたつもりなんですけれど。
碓井 スタニスラフスキーというのは、ロシア革命やレーニンの時代に、役者が役柄の内面や感情を追体験することを提唱した人ですよね。教育法が「スタニスラフスキー・システム」と呼ばれた。
倉本 例を挙げれば、役者がものをしゃべらないでいるときに何を考えているか、頭の中をどう見せるか。役者はインナーボイスをどれだけさらけ出して見せてくれるかっていうのが仕事なんですね。それができてこそ演技の幅が出てくる。それを演出してくれないんですよね、演出家も。正直いうと、それが90年代に入ってからの「もうドラマはいいかな」っていうのにつながってきて。舞台をやると直接自分が演出できるから、舞台に専念しようっていうふうに思いましたね。当時、それがテレビ離れの一番の理由ですね。(あすにつづく)
(聞き手・碓井広義)
▽くらもと・そう 1935年1月1日、東京都生まれ。東大文学部卒業後、ニッポン放送を経て脚本家。77年北海道富良野市に移住。84年「富良野塾」を開設し、2010年の閉塾まで若手俳優と脚本家を養成。21年間続いたドラマ「北の国から」ほか多数のドラマおよび舞台の脚本を手がける。
▽うすい・ひろよし 1955年、長野県生まれ。慶大法学部卒。81年テレビマンユニオンに参加。以後20年間、ドキュメンタリーやドラマの制作を行う。現在、上智大学文学部新聞学科教授(メディア文化論)。笠智衆主演「波の盆」(83年)で倉本聰と出会い、35年にわたって師事している。