倉本聰「北の国から」誕生の きっかけとなった、 北島三郎との出会い
大根仁が 『ドラマへの遺言』(倉本聰、碓井広義 著)を読む
本書は、倉本聰への自称その弟子、メディア研究家・碓井広義によるインタビューで綴られた倉本聰の人生……いや、履歴書である。
代表作が作られた経緯、脚本やセリフへの思い、現場で起きた数々の出来事、役者たちとのあけすけな裏話に多くの紙幅を割き、読み応えがあるが、個人的にはこれまであまり語られてこなかった、麻布中高~東大の学生時代のエピソードや、寺山修司や大江健三郎ら同世代の天才たちとの交友、ニッポン放送に就職~脚本家として独立しながらも業界に認められず忸怩(じくじ)たる思いを抱きながらの下積み生活など、履歴書の前半部分に惹かれた。稀代の脚本家は天賦の才能を与えられていたわけではなく、どちらかといえば落第生であり、落ちこぼれだったのだ。
白眉はやはり『北の国から』が生まれた経緯である。三十代でドラマ脚本家として着実にキャリアを積み、三十九歳でNHK大河ドラマ『勝海舟』を手掛けるが、主演・渡哲也の病気降板による現場スタッフとの軋轢(あつれき)に巻き込まれ、半ば解雇のような形で作品から離れる。傷心の倉本はそのまま逃げるように北海道で暮らし始め、ついには移住してしまう。妻の浮気をキッカケに傷心のまま東京を離れ、北海道で暮らし始める『北の国から』の主役・黒板五郎(田中邦衛)は、倉本聰そのものなのだ。
その少し前、倉本は北島三郎の付き人になる。田舎町の体育館での大熱狂リサイタル。観客の老若男女と一対一で向かい合うサブちゃんのステージに感銘を受けた倉本は“偉い人も貧しい人も学歴もへったくれもないんですよ。人間対人間なんだ”“俺は今まで誰に向かって書いてたんだろうって思った”“地べたに座らなきゃ駄目だと分かった”と、これまでの作風をガラッと変え、およそドラマには不向きのキャラクターたちを生み出してゆく。
<iframe id="google_ads_iframe_/83555300/bungeishunju/bunshun/pc_article_inarticle_0" style="border: 0px currentColor; vertical-align: bottom; border-image: none;" title="3rd party ad content" name="google_ads_iframe_/83555300/bungeishunju/bunshun/pc_article_inarticle_0" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" width="1" height="1" data-google-container-id="4" data-load-complete="true"></iframe>倉本はまた、しくじってしまった役者にも手を差し伸べる。個人的に『北の国から』で最も秀逸なキャラクターは草太(岩城滉一)なのだが、岩城は当時、数年前に犯した覚醒剤取締法違反と拳銃所持で業界から完全に干されていた。倉本が『北の国から』をフジテレビから受ける条件として、岩城を出演させることを提示したという。「あの頃は僕の周りがやたらと覚醒剤や大麻で捕まったんですよ。それで某夕刊紙に“北海道在住の某有名脚本家が大麻を栽培して仲間に流してる”なんて書かれたこともありましたね(笑い)」
倉本聰がドラマのキャラクター一人一人の履歴書を作ってから、その人物像を立体化してゆくのは有名な話だが、立派な履歴のみ書ける人間などなんの魅力もない。落ちこぼれ、しくじり、傷だらけの人生を背負った名もなき人物を魅力的に描くことがテレビドラマ本来の力であり、役割りなのだ。文春さん、週刊誌もそうあって欲しいですね、娯楽メディアとして。
くらもとそう/1935年、東京都生まれ。東京大学卒。脚本家、劇作家。『北の国から』『やすらぎの郷』など代表作多数。
うすいひろよし/1955年、長野県生まれ。慶応大学卒。テレビプロデューサーを経て、上智大学文学部新聞学科教授。
おおねひとし/1968年、東京都生まれ。テレビディレクター、映画監督。代表作に『モテキ』。NHK大河『いだてん』の演出を手がける。
(週刊文春 2019.04.18号)
ドラマへの遺言 (新潮新書) 倉本聰、碓井広義 新潮社