正攻法の歴史ドラマ
「麒麟がくる」
今年のNHK大河ドラマ、長谷川博己主演「麒麟がくる」が始まった。昨年の「いだてん」は意欲的な実験作だったが、残念ながら内容や登場人物がこの枠に合致していたかどうか、疑問が残った。
今回は、いわゆる「戦国大河」の復活となる。これに対して、戦国時代や幕末など同じ時代、同じ人物が繰り返し取り上げられるという批判があるのも事実だ。しかし、作品によって人物像や史実の解釈が違う点も大河の魅力だろう。
主人公は明智光秀。「本能寺の変」で主君の織田信長を討ったことによって、「裏切り者」もしくは「悪人」のイメージが強い。
しかし、「歴史」を作ってきたのは常に勝者であり権力者である。信長の後継者を自任する秀吉にしてみれば、自らの正当性を主張するためにも、光秀を「逆賊」とする必要があったはずだ。では、光秀とは果たしてどのような人物だったのか。ドラマはフィクションだが、一つの解釈として楽しみたい。
初回、光秀は主君の斉藤道三(本木雅弘)に直訴して旅に出た。堺で地方にはない「豊かな経済」を体感し、京では「都の荒廃」を目にする。この行動力と洞察力が光秀の武器となっていくはずだ。
脚本を手掛けているのはベテランの池端俊策だが、その手腕は他の場面でも発揮されていた。光秀は京で火事の現場に遭遇する。燃え落ちる民家から子どもを救い出した光秀は、医師・望月東庵(堺正章)の助手、駒(門脇麦)から教えられる。「戦(いくさ)のない世をつくれる人が、麒麟を連れてくる」のだと。
それを聞いた光秀が言う。「旅をしてよく分かりました。どこにも麒麟はいない。何かを変えなければ、誰かが変えなければ、美濃にも京にも、麒麟は来ない!」。光秀が、その後の人生をどう歩むのかを予感させる、見事なセリフだった。
主演の長谷川だが、何よりその立ち姿が美しい。このドラマにおける光秀は、庶民への接し方も人間的で、ごく真っ当な精神の持ち主であることがわかるが、長谷川の雰囲気にはぴったりだ。ある時は純な少年の表情を見せ、またある時は大人の思慮深さがにじみ出る、新たな戦国武将像を創出している。
前作「いだてん」は、機関銃のようなセリフと短いカットの積み重ねが忙(せわ)しかった。今回は歴史ドラマとして正攻法の構えであり、あざやかな色彩に満ちた波瀾の戦国物語をじっくりと味わえる一作になりそうだ。
(北海道新聞「碓井広義の放送時評」2020.02.01)