ハワイ島 2013
毎週、「週刊新潮」に書いてきた書評で、今年読んできた本を振り返っています。
その2月編。
(文末の日付は本の発行日)
2013年 こんな本を読んできた (2月編)
佐川光晴『山あり愛あり』
双葉社 1575円
環境事業などに市民が融資する金融機関がNPOバンクだ。まだ世間に十分知られていない取り組みから、この長編小説が生まれた。
主人公の大鉢周三は大手銀行を早期自主退職する。かつての趣味は登山で、信州の高校時代、また北海道の大学でも続けたが、銀行マンになってからは封印していた。ようやく再開と思った矢先、敬愛する弁護士に頼まれ、母子家庭を支援するNPOバンクの設立に関わることになる。
現実にシングルマザーの貧困率は6割以上だ。低賃金の非正規労働に就きながらの子育ては彼女たちに重い負担を強いている。バンクが果たす役割は大きい。
周三の任務は、大物ミュージシャンの枝川に1億円の出資と顧問就任を了承させることだ。しかし枝川を説得するのは簡単ではない。また周三の身辺にもある危機が迫っていた。
(2013.01.10発行)
石村博子
『孤高の名家 朝吹家を生きる〜仏文学者・朝吹三吉の肖像』
角川書店 1890円
仏文学者・朝吹三吉の人物像を描くと共に、朝吹家という文化的一族の歴史を掘り起こした、力作ノンフィクションである。
朝吹三吉はジャン・ジュネ『泥棒日記』の翻訳家として知られる。祖父は三井系企業の重役。父も実業家であり、家は裕福だった。幼稚舎からの慶應育ち。1930年代に渡仏し、どん欲に知識を吸収する。
そんな三吉から強い影響を受けたのが、後にサガン『悲しみよ こんにちは』などを翻訳する妹の登水子だ。三吉の息子は詩人で仏文学者の朝吹亮二。その娘が『きことわ』で芥川賞を受賞した朝吹真理子である。
著者が発掘した新たな資料と関係者への取材から浮かび上がるのは、社会の表舞台に立ったり名前が広まったりすることを避けながら、フランスとその文化を愛し抜いた稀代のディレッタントの相貌だ。
(2013.01.10発行)
高瀬 毅 『本の声を聴け〜ブックディレクター幅允孝の仕事』
文藝春秋 1943円
ブックディレクターとは、いわば「本棚の編集者」だ。あるテーマに沿って本を並べることで、本たちに新たな関係性と意味を与える。病院から美容室まで、本が置かれたあらゆる場所が仕事の舞台だ。日本でただ一人のブックディレクターの歩みと現在に迫る。
(2013.01.15発行)
岡野守也 『ストイックという思想』
青土社 2310円
古代ローマ皇帝のマルクス・アウレーリウスが著した『自省録』。変化への対応、公務を大切にすること、さらに全てを受け入れる覚悟など、現代人にも有効な知恵の宝庫だ。ストイシズムを「真摯に生きること」と解釈する著者の先導で、快楽主義の次が見えてくる。
(2013.01.20発行)
古田博司 『「紙の本」はかく語りき』
ちくま文庫 924円
PR誌『ちくま』に連載された読書エッセイ「珍本通読」が文庫オリジナルとして登場。古今東西、様々なジャンルの本がもたらす愉しみが語られる。またネット時代だからこそ、検索結果を判断する力を書物で養う必要があるという著者の主張も納得だ。
(2013.01.10発行)
相場英雄 『血の轍(わだち)』
幻冬舎 1575円
「震える牛」の著者による最新警察小説だ。一つの殺人事件をきっかけに始まる、刑事部対公安部の凄まじい暗闘が描かれていく。
警察車両に乗った捜査一課長・海藤の耳に無線が飛び込んでくる。公園で変死体が発見され、それが元刑事の香川と判明したのだ。現場に急行しようとしているのは一課の兎沢だった。
続いて海藤の携帯電話が鳴る。公安総務課の志水からで、香川の死を確かめようとしたらしい。兎沢と志水は同じ時期に海藤の部下だった。今は全く別の道を歩んでいる2人が海藤の前で交差する。
香川の死因は絞殺だった。退職後はデパートの保安員をしていた男が、なぜ殺されたのか。そこには香川がつかんだ警察内部のある情報がからんでいた。犯人を追う刑事たち。その前に立ちはだかる公安。男たちの運命も急転回していく。
(2013.01.25発行)
小林信彦 『私の東京地図』
筑摩書房 1680円
著者には、「私説東京繁盛記」「私説東京放浪記」など東京を題材とした好書がある。本書もまた<故郷としての東京>と<時代観察者が見た東京>が交錯する重層的な街エッセイだ。
日々変貌を続ける東京の街。しかし著者には現在の街並みの向こうに“昭和の東京”が見えている。六本木はかつて「都内最大の米軍基地」の街であり、ハンバーガーと店先の日本刀がそれを象徴していた。また60年代の渋谷は安い食べ物屋が並ぶ学生の街だった。
そして新宿。著者が最もページ数を割いているのがここだ。歌舞伎町という一見奇異な名称の由来にはじまり、おびただしい映画館が並ぶキネマの街だったことが語られていく。「私のようなタイプの東京の人間は、東京が無理に変化をさせられるのをきらう」と著者。その絶妙な距離感も本書の読みどころの一つだ。
(2013.01.10発行)
福田和也 『「贅」の研究』
講談社 1890円
大人の男は日常の中にこそ美学が必要だ。カメラや眼鏡、床屋からとんかつまで、本誌コラム「世間の値打ち」の著者が自ら選んだ人、モノ、店が並ぶ。「要するに贅沢品というのは、銀座とその周辺―日本橋とか―にしかない」という“発見”にも納得がいく。
(2013.01.31発行)
斎藤美奈子 『名作うしろ読み』
中央公論新社 1575円
名作と呼ばれる文学作品の「書き出し」はよく知られている。では、最後の文章を記憶しているだろうか。本書は逆転の発想による異色の文学案内である。ラストの一文から見えてくる名作の全体像と作者の実相。再読してみたくなる本の数に、ため息が出るはずだ。
(2013.01.25発行)
コロナ・ブックス編集部 『作家の犬2』
平凡社 1680円
写真と文章で楽しむ「作家の愛した動物たち」シリーズの最新刊だ。小説家の家で暮らす犬が語り手だった井上ひさし「ドン松五郎の生活」。一人っ子で寂しがり屋の寺山修司は犬を愛し続けた。逆に犬が苦手だった芥川龍之介や太宰治のエピソードも可笑しい。
(2013.01.25発行)
杉田 敦 『政治的思考』
岩波新書 756円
政権が変わったからといって、混迷の時代が終わるわけでも、政治的不信が払拭されたわけでもない。ならば、今こそ政治についてその根本から考えてみる必要があるのではないか。本書は気鋭の政治学者による「政治の整理学」である。
決定、代表、討議、権力、自由、社会、限界、距離の全8章から見えてくるのは、「複雑で先を見通せない不透明性の世界の中に、政治はある」という事実だ。そこには困難と可能性が同居している。「政治こそが」と信じる人も、「政治なんて」とうそぶく人も、一読する価値のある一冊だ。
(2013.01.22発行)
辻原 登 『冬の旅』
集英社1680円
罪を背負った男の人生の軌跡と、絶望の果てにある悲しすぎる救い。シューベルトや立原正秋を想起させるタイトルに、著者の自信がうかがえる意欲作だ。
2008年6月、滋賀刑務所から一人の男が出てくる。5年の刑期を終えた緒方隆雄だ。見張り役とはいえ、強盗致死事件の犯人の一人だった。母親と二人暮らしの緒方は、姫路の高校を卒業すると京都ある専門学校へと進んだ。ぼんやりとシステム・エンジニアをめざしていた、ごく平凡な少年の道はどこでねじ曲がってしまったのか。
出所後の緒方と、事件に至るまでの回想が交差し、徐々に過去が明らかになる。それは社会の片隅に生きる男や女と出会うたび、自分の居場所を見失った転落のプロセスだ。物語は阪神・淡路大震災、そして東日本大震災も取り込みながら、驚きの終局へと向かう。
(2013.01.30発行)
ジョン・アップダイク 若島正:編訳、森慎一郎:訳
『アップダイクと私〜アップダイク・エッセイ傑作選』
河出書房新社 2520円
『走れウサギ』4部作などで知られるアップダイク。本書は彼のエッセイや書評を集めたアンソロジーだ。書かれた文章は対象が本であれ映画であれ、テーマと視点と表現のマッチングが見事で読みごたえがある。
中でも書評は1篇ごとの字数も多く、アップダイク自身の文学観にも触れることができる。また、夏目漱石『吾輩は猫である』や谷崎潤一郎『吉野葛』など日本文学にも言及しており、特に村上春樹『海辺のカフカ』に関する考察が興味深い。「読み出すと止まらぬおもしろさ、しかもとことん形而上的な幻覚剤めいた小説」だとして、『源氏物語』と対比していくのだ。
巻末の解説に書評家としての規律が記されている。「著者が狙っていないことを達成できなかったからといってけなしてはいけない」の一文が彼の真摯な姿勢を物語っている。
(2013.01.30発行)
ウンベルト・エーコ :著 リッカルド・アマデイ:訳
「歴史が後ずさりするとき〜熱い戦争とメディア」
岩波書店 3045円
小説『薔薇の名前』で知られる著者は世界的な記号論学者であり、優れた批評家でもある。モットーは「積極的反感」。娯楽化するばかりのメディアにも、検閲的な措置をとる政治にも堂々と物申している。学際的知識を背景にしながら平易な語り口が魅力的だ。
(2013.01.24発行)
円堂都司昭 『ディズニーの隣の風景〜オンステージ化する日本』
原書房 1890円
東京ディズニーランドのある舞浜。次世代セレブが住む新浦安。夢の国の隣人たちの現実をベースに、地域問題を鋭く分析している。キーワードはオンステージ化だ。街にイメージが添加されて舞台化が進み、その先はどうなるのか。今起きている現象の深層が見える。
(2013.02.04発行)
宇都宮聡、川崎悟司 『日本の絶滅古生物図鑑』
築地書館 2310円
前著『日本の恐竜図鑑』が話題を呼んだ、サラリーマン化石ハンターと古生物イラストレーターによる最新刊だ。日本に恐竜が生息した中生代の前後にも、個性的かつ魅力的な生き物たちがいたことを明らかにしている。巻末には恐竜や化石が見られる博物館ガイドも。
(2013.02.10発行)
湊かなえ 『望郷』
文藝春秋 1470円
瀬戸内海にある小さな島を舞台とした連作短編集だ。収録の6編はリンクしながら一つの物語となっている。
登場する白綱(しらつな)島は架空の島だが、著者は広島県・因島の出身であり、その風景や暮らしは作品にも反映されている。しかし故郷は懐かしいだけの場所ではない。そこに留まった者、出て行った者、再び帰ってきた者、それぞれにとって愛憎半ばする存在なのだ。
駆け落ちで島を出ながら作家として成功した姉。島に住み続けてきた妹。2人の微妙な関係を描くのは「みかんの花」だ。長年のわだかまりや疑問が封印を解くように明らかになっていく過程に怖さがある。
「海の星」は日本推理作家協会賞短編部門受賞作。まだ少年だった自分と母を置き去りにして失踪した父に何があったのか。島という閉鎖社会を背景に、人間の業にまで迫った名作だ。
(2013.01.30発行)
尾崎俊介 『S先生のこと』
新宿書房 2520円
愛弟子が師の生涯を綴った長編エッセイだが、優れた小説のような深い物語性に満ちている。
S先生とはアメリカ文学者、翻訳家、また小説家でもあった須山静夫のことだ。著者は学部時代に出会い、以後30年に亘り師事する。文学作品を解読していく過程での立場を超えた共鳴。師が別の大学に移れば、追いかけてでも学ぼうとする熱意。自らが一人前の研究者となってからも常に近くにいた。学識だけでなく人間的魅力が須山にあったからこそ、これほど濃密な師弟関係が続いたのだ。
須山が亡くなる3年前に上梓した自伝的小説が『墨染めに咲け』だ。そこには幼い息子を残して逝った妻のこと、そして20歳で事故死した息子のことが痛恨の思いと共に記されている。著者が師の最後の本と同じ版元から本書を出すことも、強い哀惜の表れである。
(2013.02.20発行)
井上荒野 『それを愛と間違えるから』
中央公論新社 1575円
41歳の妻と42歳の夫。結婚して15年の夫婦に訪れた離婚の危機を描く長編小説だ。大きな不満があるわけではなく、平和な日常が続いていた。ところが、妻が突然「恋人がいる」と告白する。しかも夫にも愛人がいた。そんな4人が一緒にキャンプに行くことになり・・。
(2013.01.15発行)
藤田弘基 『蒸気機関車百景〜昭和を駆け抜けた栄光のSL』
平凡社 3990円
デビューした東海道新幹線の新型車両N700A。その空力学的デザインよりも在りし日の蒸気機関車に魅力を感じるのはなぜだろう。本書には室蘭本線のC57をはじめ、100を超すSLが並んでいる。風景を切り裂くのではなく、溶け込むように走る姿が感動的だ。
(2013.02.14発行)
東海テレビ取材班 『名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の半生記』
岩波書店 1995円
長年、「司法シリーズ」と呼ばれる秀作ドキュメンタリーを制作してきた東海テレビ。本書は52年前に起きた毒殺事件と、その犯人とされた人物の冤罪をめぐる執念の取材記録だ。同時に公開中の映画『約束 名張毒ぶどう酒事件〜死刑囚の生涯』の原作でもある。
(2013.02.15発行)
小沢昭一 『芸人の肖像』
ちくま新書 945円
昨年の12月に亡くなった俳優・小沢昭一。映画だけでなく、ラジオでの語り、エッセイ、芸能研究など多彩な活動が記憶に残る。そんな小沢の原点が実家の写真館であり、傍らには常にカメラがあった。本書は生前に企画が決定し、編集作業が進んでいた“最新”写真集であり、遺作である。
小沢がファインダー越しに見つめた芸人たちの姿は、いわう芸、あきなう芸、さらす芸など8つのジャンルに分けられている。演技の最中から日常まで、いずれも撮影者に心を許した自然な表情ばかりだ。昭和という時代もまたそこにある。
(2013.02.10発行)
毎週、「週刊新潮」に書いてきた書評で、今年読んできた本を振り返っています。
その2月編。
(文末の日付は本の発行日)
2013年 こんな本を読んできた (2月編)
佐川光晴『山あり愛あり』
双葉社 1575円
環境事業などに市民が融資する金融機関がNPOバンクだ。まだ世間に十分知られていない取り組みから、この長編小説が生まれた。
主人公の大鉢周三は大手銀行を早期自主退職する。かつての趣味は登山で、信州の高校時代、また北海道の大学でも続けたが、銀行マンになってからは封印していた。ようやく再開と思った矢先、敬愛する弁護士に頼まれ、母子家庭を支援するNPOバンクの設立に関わることになる。
現実にシングルマザーの貧困率は6割以上だ。低賃金の非正規労働に就きながらの子育ては彼女たちに重い負担を強いている。バンクが果たす役割は大きい。
周三の任務は、大物ミュージシャンの枝川に1億円の出資と顧問就任を了承させることだ。しかし枝川を説得するのは簡単ではない。また周三の身辺にもある危機が迫っていた。
(2013.01.10発行)
石村博子
『孤高の名家 朝吹家を生きる〜仏文学者・朝吹三吉の肖像』
角川書店 1890円
仏文学者・朝吹三吉の人物像を描くと共に、朝吹家という文化的一族の歴史を掘り起こした、力作ノンフィクションである。
朝吹三吉はジャン・ジュネ『泥棒日記』の翻訳家として知られる。祖父は三井系企業の重役。父も実業家であり、家は裕福だった。幼稚舎からの慶應育ち。1930年代に渡仏し、どん欲に知識を吸収する。
そんな三吉から強い影響を受けたのが、後にサガン『悲しみよ こんにちは』などを翻訳する妹の登水子だ。三吉の息子は詩人で仏文学者の朝吹亮二。その娘が『きことわ』で芥川賞を受賞した朝吹真理子である。
著者が発掘した新たな資料と関係者への取材から浮かび上がるのは、社会の表舞台に立ったり名前が広まったりすることを避けながら、フランスとその文化を愛し抜いた稀代のディレッタントの相貌だ。
(2013.01.10発行)
高瀬 毅 『本の声を聴け〜ブックディレクター幅允孝の仕事』
文藝春秋 1943円
ブックディレクターとは、いわば「本棚の編集者」だ。あるテーマに沿って本を並べることで、本たちに新たな関係性と意味を与える。病院から美容室まで、本が置かれたあらゆる場所が仕事の舞台だ。日本でただ一人のブックディレクターの歩みと現在に迫る。
(2013.01.15発行)
岡野守也 『ストイックという思想』
青土社 2310円
古代ローマ皇帝のマルクス・アウレーリウスが著した『自省録』。変化への対応、公務を大切にすること、さらに全てを受け入れる覚悟など、現代人にも有効な知恵の宝庫だ。ストイシズムを「真摯に生きること」と解釈する著者の先導で、快楽主義の次が見えてくる。
(2013.01.20発行)
古田博司 『「紙の本」はかく語りき』
ちくま文庫 924円
PR誌『ちくま』に連載された読書エッセイ「珍本通読」が文庫オリジナルとして登場。古今東西、様々なジャンルの本がもたらす愉しみが語られる。またネット時代だからこそ、検索結果を判断する力を書物で養う必要があるという著者の主張も納得だ。
(2013.01.10発行)
相場英雄 『血の轍(わだち)』
幻冬舎 1575円
「震える牛」の著者による最新警察小説だ。一つの殺人事件をきっかけに始まる、刑事部対公安部の凄まじい暗闘が描かれていく。
警察車両に乗った捜査一課長・海藤の耳に無線が飛び込んでくる。公園で変死体が発見され、それが元刑事の香川と判明したのだ。現場に急行しようとしているのは一課の兎沢だった。
続いて海藤の携帯電話が鳴る。公安総務課の志水からで、香川の死を確かめようとしたらしい。兎沢と志水は同じ時期に海藤の部下だった。今は全く別の道を歩んでいる2人が海藤の前で交差する。
香川の死因は絞殺だった。退職後はデパートの保安員をしていた男が、なぜ殺されたのか。そこには香川がつかんだ警察内部のある情報がからんでいた。犯人を追う刑事たち。その前に立ちはだかる公安。男たちの運命も急転回していく。
(2013.01.25発行)
小林信彦 『私の東京地図』
筑摩書房 1680円
著者には、「私説東京繁盛記」「私説東京放浪記」など東京を題材とした好書がある。本書もまた<故郷としての東京>と<時代観察者が見た東京>が交錯する重層的な街エッセイだ。
日々変貌を続ける東京の街。しかし著者には現在の街並みの向こうに“昭和の東京”が見えている。六本木はかつて「都内最大の米軍基地」の街であり、ハンバーガーと店先の日本刀がそれを象徴していた。また60年代の渋谷は安い食べ物屋が並ぶ学生の街だった。
そして新宿。著者が最もページ数を割いているのがここだ。歌舞伎町という一見奇異な名称の由来にはじまり、おびただしい映画館が並ぶキネマの街だったことが語られていく。「私のようなタイプの東京の人間は、東京が無理に変化をさせられるのをきらう」と著者。その絶妙な距離感も本書の読みどころの一つだ。
(2013.01.10発行)
福田和也 『「贅」の研究』
講談社 1890円
大人の男は日常の中にこそ美学が必要だ。カメラや眼鏡、床屋からとんかつまで、本誌コラム「世間の値打ち」の著者が自ら選んだ人、モノ、店が並ぶ。「要するに贅沢品というのは、銀座とその周辺―日本橋とか―にしかない」という“発見”にも納得がいく。
(2013.01.31発行)
斎藤美奈子 『名作うしろ読み』
中央公論新社 1575円
名作と呼ばれる文学作品の「書き出し」はよく知られている。では、最後の文章を記憶しているだろうか。本書は逆転の発想による異色の文学案内である。ラストの一文から見えてくる名作の全体像と作者の実相。再読してみたくなる本の数に、ため息が出るはずだ。
(2013.01.25発行)
コロナ・ブックス編集部 『作家の犬2』
平凡社 1680円
写真と文章で楽しむ「作家の愛した動物たち」シリーズの最新刊だ。小説家の家で暮らす犬が語り手だった井上ひさし「ドン松五郎の生活」。一人っ子で寂しがり屋の寺山修司は犬を愛し続けた。逆に犬が苦手だった芥川龍之介や太宰治のエピソードも可笑しい。
(2013.01.25発行)
杉田 敦 『政治的思考』
岩波新書 756円
政権が変わったからといって、混迷の時代が終わるわけでも、政治的不信が払拭されたわけでもない。ならば、今こそ政治についてその根本から考えてみる必要があるのではないか。本書は気鋭の政治学者による「政治の整理学」である。
決定、代表、討議、権力、自由、社会、限界、距離の全8章から見えてくるのは、「複雑で先を見通せない不透明性の世界の中に、政治はある」という事実だ。そこには困難と可能性が同居している。「政治こそが」と信じる人も、「政治なんて」とうそぶく人も、一読する価値のある一冊だ。
(2013.01.22発行)
辻原 登 『冬の旅』
集英社1680円
罪を背負った男の人生の軌跡と、絶望の果てにある悲しすぎる救い。シューベルトや立原正秋を想起させるタイトルに、著者の自信がうかがえる意欲作だ。
2008年6月、滋賀刑務所から一人の男が出てくる。5年の刑期を終えた緒方隆雄だ。見張り役とはいえ、強盗致死事件の犯人の一人だった。母親と二人暮らしの緒方は、姫路の高校を卒業すると京都ある専門学校へと進んだ。ぼんやりとシステム・エンジニアをめざしていた、ごく平凡な少年の道はどこでねじ曲がってしまったのか。
出所後の緒方と、事件に至るまでの回想が交差し、徐々に過去が明らかになる。それは社会の片隅に生きる男や女と出会うたび、自分の居場所を見失った転落のプロセスだ。物語は阪神・淡路大震災、そして東日本大震災も取り込みながら、驚きの終局へと向かう。
(2013.01.30発行)
ジョン・アップダイク 若島正:編訳、森慎一郎:訳
『アップダイクと私〜アップダイク・エッセイ傑作選』
河出書房新社 2520円
『走れウサギ』4部作などで知られるアップダイク。本書は彼のエッセイや書評を集めたアンソロジーだ。書かれた文章は対象が本であれ映画であれ、テーマと視点と表現のマッチングが見事で読みごたえがある。
中でも書評は1篇ごとの字数も多く、アップダイク自身の文学観にも触れることができる。また、夏目漱石『吾輩は猫である』や谷崎潤一郎『吉野葛』など日本文学にも言及しており、特に村上春樹『海辺のカフカ』に関する考察が興味深い。「読み出すと止まらぬおもしろさ、しかもとことん形而上的な幻覚剤めいた小説」だとして、『源氏物語』と対比していくのだ。
巻末の解説に書評家としての規律が記されている。「著者が狙っていないことを達成できなかったからといってけなしてはいけない」の一文が彼の真摯な姿勢を物語っている。
(2013.01.30発行)
ウンベルト・エーコ :著 リッカルド・アマデイ:訳
「歴史が後ずさりするとき〜熱い戦争とメディア」
岩波書店 3045円
小説『薔薇の名前』で知られる著者は世界的な記号論学者であり、優れた批評家でもある。モットーは「積極的反感」。娯楽化するばかりのメディアにも、検閲的な措置をとる政治にも堂々と物申している。学際的知識を背景にしながら平易な語り口が魅力的だ。
(2013.01.24発行)
円堂都司昭 『ディズニーの隣の風景〜オンステージ化する日本』
原書房 1890円
東京ディズニーランドのある舞浜。次世代セレブが住む新浦安。夢の国の隣人たちの現実をベースに、地域問題を鋭く分析している。キーワードはオンステージ化だ。街にイメージが添加されて舞台化が進み、その先はどうなるのか。今起きている現象の深層が見える。
(2013.02.04発行)
宇都宮聡、川崎悟司 『日本の絶滅古生物図鑑』
築地書館 2310円
前著『日本の恐竜図鑑』が話題を呼んだ、サラリーマン化石ハンターと古生物イラストレーターによる最新刊だ。日本に恐竜が生息した中生代の前後にも、個性的かつ魅力的な生き物たちがいたことを明らかにしている。巻末には恐竜や化石が見られる博物館ガイドも。
(2013.02.10発行)
湊かなえ 『望郷』
文藝春秋 1470円
瀬戸内海にある小さな島を舞台とした連作短編集だ。収録の6編はリンクしながら一つの物語となっている。
登場する白綱(しらつな)島は架空の島だが、著者は広島県・因島の出身であり、その風景や暮らしは作品にも反映されている。しかし故郷は懐かしいだけの場所ではない。そこに留まった者、出て行った者、再び帰ってきた者、それぞれにとって愛憎半ばする存在なのだ。
駆け落ちで島を出ながら作家として成功した姉。島に住み続けてきた妹。2人の微妙な関係を描くのは「みかんの花」だ。長年のわだかまりや疑問が封印を解くように明らかになっていく過程に怖さがある。
「海の星」は日本推理作家協会賞短編部門受賞作。まだ少年だった自分と母を置き去りにして失踪した父に何があったのか。島という閉鎖社会を背景に、人間の業にまで迫った名作だ。
(2013.01.30発行)
尾崎俊介 『S先生のこと』
新宿書房 2520円
愛弟子が師の生涯を綴った長編エッセイだが、優れた小説のような深い物語性に満ちている。
S先生とはアメリカ文学者、翻訳家、また小説家でもあった須山静夫のことだ。著者は学部時代に出会い、以後30年に亘り師事する。文学作品を解読していく過程での立場を超えた共鳴。師が別の大学に移れば、追いかけてでも学ぼうとする熱意。自らが一人前の研究者となってからも常に近くにいた。学識だけでなく人間的魅力が須山にあったからこそ、これほど濃密な師弟関係が続いたのだ。
須山が亡くなる3年前に上梓した自伝的小説が『墨染めに咲け』だ。そこには幼い息子を残して逝った妻のこと、そして20歳で事故死した息子のことが痛恨の思いと共に記されている。著者が師の最後の本と同じ版元から本書を出すことも、強い哀惜の表れである。
(2013.02.20発行)
井上荒野 『それを愛と間違えるから』
中央公論新社 1575円
41歳の妻と42歳の夫。結婚して15年の夫婦に訪れた離婚の危機を描く長編小説だ。大きな不満があるわけではなく、平和な日常が続いていた。ところが、妻が突然「恋人がいる」と告白する。しかも夫にも愛人がいた。そんな4人が一緒にキャンプに行くことになり・・。
(2013.01.15発行)
藤田弘基 『蒸気機関車百景〜昭和を駆け抜けた栄光のSL』
平凡社 3990円
デビューした東海道新幹線の新型車両N700A。その空力学的デザインよりも在りし日の蒸気機関車に魅力を感じるのはなぜだろう。本書には室蘭本線のC57をはじめ、100を超すSLが並んでいる。風景を切り裂くのではなく、溶け込むように走る姿が感動的だ。
(2013.02.14発行)
東海テレビ取材班 『名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の半生記』
岩波書店 1995円
長年、「司法シリーズ」と呼ばれる秀作ドキュメンタリーを制作してきた東海テレビ。本書は52年前に起きた毒殺事件と、その犯人とされた人物の冤罪をめぐる執念の取材記録だ。同時に公開中の映画『約束 名張毒ぶどう酒事件〜死刑囚の生涯』の原作でもある。
(2013.02.15発行)
小沢昭一 『芸人の肖像』
ちくま新書 945円
昨年の12月に亡くなった俳優・小沢昭一。映画だけでなく、ラジオでの語り、エッセイ、芸能研究など多彩な活動が記憶に残る。そんな小沢の原点が実家の写真館であり、傍らには常にカメラがあった。本書は生前に企画が決定し、編集作業が進んでいた“最新”写真集であり、遺作である。
小沢がファインダー越しに見つめた芸人たちの姿は、いわう芸、あきなう芸、さらす芸など8つのジャンルに分けられている。演技の最中から日常まで、いずれも撮影者に心を許した自然な表情ばかりだ。昭和という時代もまたそこにある。
(2013.02.10発行)