Quantcast
Channel: 碓井広義ブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 5568

没後40年、向田邦子が再び注目を集めている理由

$
0
0

青山スパイラルホール

 

 

没後40年、向田邦子が

再び注目を集めている「これだけの理由」

脚本家としての軌跡を振り返る

 

「没後40年」の向田邦子

ドラマ『寺内貫太郎一家』や『阿修羅のごとく』などで知られる脚本家、向田邦子。

脚本だけでなく、優れたエッセイストであり、直木賞作家でもあった彼女が亡くなったのは、昭和56年(1981)8月22日だ。旅行先の台湾で遭遇した航空機事故だった。

今年は「没後40年」にあたるが、今も彼女が書いたドラマはアーカイブなどで視聴され、脚本や小説なども読み継がれている。

また現在、東京・青山のスパイラルホールでは、向田邦子没後40年特別イベント「いま、風が吹いている」が開催されており(1月24日まで)、あらためて注目が集まっている。

ここでは「脚本家としての向田邦子」に焦点を合わせ、その軌跡を振り返ってみたい。

「昭和の娘」向田邦子

向田邦子は昭和4年(1929)11月に東京の世田谷で生まれた。7歳だった昭和12年(1937)に日中戦争がはじまり、12歳で太平洋戦争が勃発する。昭和20年(1945)の敗戦時には15歳。目黒高等女学校の生徒だった。

つまり向田は戦前からの日本を、当時の日本人の暮しを知っていた。その体験は何ものにも代えがたい貴重な財産であり、後の脚本、エッセイ、小説などの向田作品を生み出す大きな源泉となっていく。

昭和25年(1950)、実践女子専門学校(実践女子大学の前身)を卒業すると、財政文化社に入って社長秘書を務める。2年後には出版の雄鶏社に転職。洋画雑誌「映画ストーリー」の編集に9年近く携わった。

卒業と同時に家庭に入る女性も珍しくなかった時代であり、向田は現在の働く女性たちの大先輩ということになる。

「脚本家・向田邦子」の登場

日本でテレビ放送が始まったのは昭和28年(1953)のことだ。その5年後の昭和33年(1958)、向田は会社に在籍したまま、脚本家の世界へと足を踏み入れる。デビュー作は日本初の刑事ドラマ『ダイヤル110番』(日本テレビ)の中の1本で、ほかの脚本家との共作だった。

昭和37年(1962)には自身初のラジオドラマとなる『森繁の重役読本』(TBS)に参加する。俳優の森繁久彌が、ちょっと切ない中年男の本音と建て前をペーソス溢れる口調で語っていた人気番組だ。

森繁は向田の脚本を評して「昔の日常茶飯を、巧みな比喩を用い、上質のユーモアを交えて再現している」と書いている。達意の文章家でもあった森繁に、その文才を認められたことは大きかった。

『七人の孫』

前の東京オリンピックが開催された、昭和39年(1964)に始まった森繁久彌主演の連続テレビドラマ『七人の孫』(同)は、当時流行していた「大家族ドラマ」だ。森繁が演じたのはリタイアした元会社経営者で、若い男女の孫たちとの世代差から生まれるエピソードが見る者を楽しませた。

ただし、この時期の向田は、あくまでも参加していた複数の脚本家の一人である。それは当時の向田のキャリアや実績からして当然のことだった。大抵の脚本家は、まず連続ドラマの中の何本かを担当し、また一話完結ドラマなどで腕を磨きながら、やがて全話を単独で任される脚本家になることを目指していく。向田もその一人だったのだ。

ちなみに『七人の孫』には、加藤治子、いしだあゆみ、そして樹木希林(当時は悠木千帆)といった、後年の「向田ドラマ」に欠かせない面々が出演していた。また演出陣の中には、やがて『時間ですよ』(TBS)や『寺内貫太郎一家』(同)でコンビを組むことになるディレクター、久世光彦(くぜ てるひこ)もいた。

その後も数えきれないほどの作品に関わっていく向田だが、戦前の記憶という「財産」に加え、抜きんでた「観察眼」が武器となった。世の中を、そして人間を向田は静かに見つめ、その深層と本質をドラマの登場人物たちに投影させていく。

『時間ですよ』、『寺内貫太郎一家』

昭和46年(1971)には人気ドラマシリーズ『時間ですよ』に参加。評価が高まる中で、ほぼ全話を一人で書き上げたのが、昭和49年(1974)の『寺内貫太郎一家』である。この時、向田は44歳になっていた。

気に入らないことがあれば怒鳴り、ちゃぶ台をひっくり返して家族に鉄拳を振るう貫太郎は、どこか懐かしい「昭和の頑固オヤジ」そのものだ。

実はこの頃まで、ホームドラマを支えていたのは「母親」だった。50年代の終りから約10年も続いたドラマシリーズ『おかあさん』(TBS)はもちろん、70年代前半のヒット作『ありがとう』(同)も母親を中心とする物語だ。その意味で「父親」を軸とした『寺内貫太郎一家』は画期的なホームドラマだったのである。

作曲家の小林亜星が演じた主人公・貫太郎のモデルが、向田の父・敏雄だったことは作者自身が明かしている。巨漢の石屋ではなく保険会社勤務だったが、その性格やふるまいには父の実像が色濃く反映されていた。また貫太郎の妻・さと子(加藤治子)には向田の母が、そして貫太郎の母親・きん(悠木千帆)には祖母の姿がどこか重なって見える。

『寺内貫太郎一家』のような脚本の「単独執筆」も増え、ドラマ界における地位も確立されていった向田。ところが、昭和50年(1975)に乳がんの手術を受けることになる。さらに手術の際の輸血が原因で血清肝炎となり、右手が利かなくなる病気も併発してしまう。

当時は現在よりも、がんという病気が怖れられていた時代だ。向田も自身の問題として「死」について思いめぐらすが、それは同時に「生」について考えることでもあった。今後「どう生きるか」の問題と言ってもいい。

エッセイ集『父の詫び状』

乳がん手術の影響は大きく二つある。一つは『父の詫び状』にはじまるエッセイや、その後の小説のように、「活字(本)として残る」仕事を手掛けるようになったことだ。

脚本は基本的にドラマの収録が終れば「用済み」となってしまう。中には保存しておく出演者やスタッフもいるが、多くは捨てられる運命だった。その一種の潔さを向田も愛してはいたが、どこかに虚しさや寂しさもあったはずだ。

また俳優が演じることを前提とする脚本は、俳優が口にする「台詞」と簡潔な説明である「ト書き」で成り立っており、細かな心理描写などをストレートに書き込むことはできない。そのもどかしさも脚本家は抱えている。生還したとはいえ、死を見つめざるを得なかった向田が、脚本とは異なる表現の場を求めて動き出したことに納得がいく。

その意味でも、昭和51年(1976)は向田邦子の転機となった年である。雑誌『銀座百点』で、初の連載となるエッセイの執筆が始まったのだ。53年まで24回続いたこの連載が、『父の詫び状』として刊行されると大評判になった。

特にタイトルにもなった向田の父、敏雄の存在が際立っている。家父長制が当り前の時代の、いわば「家庭内ワンマン」だったが、頑固さの奥に温もりやユーモアを感じさせて秀逸な父親だった。

また、このエッセイで語られる昭和初期から10年代にかけての東京の下町、さらに山の手の家庭が醸し出す雰囲気は、単なるノスタルジーではなく、私たち日本人が「忘れかけていた何か」を伝えていた。

『冬の運動会』、『家族熱』、『阿修羅のごとく』

そして、病気を経験したことによる影響の二つ目がドラマだった。この頃から「向田ドラマ」はその円熟期へと向っていく。

昭和52年(1977)の『冬の運動会』(TBS)は、他人である靴屋夫婦の家に自分が求めていた「家庭」を見いだそうとする青年(根津甚八)の話だが、これ以降、向田が書く家族劇の「緊張度」は一気に高まった。

それまでのホームドラマにはあまり見られなかった、家族の「影」や「闇」の部分にメスを入れたのだ。人間の本音に迫るリアルでシリアスなホームドラマ。これから先の人生は「自分が書きたいもの」を書く、という覚悟の表明だったのではないか。

昭和53年(1978)の『家族熱』(TBS)。夫婦(三國連太郎、浅丘ルリ子)、夫の連れ子の長男(三浦友和)と次男(田島真吾)、そして老父(志村喬)という平穏な家庭が、息子たちの実母である先妻(加藤治子)の登場によって揺れ始める。

また昭和54年(1979)の『阿修羅のごとく』(NHK)では、性格も生き方も違う四姉妹(加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ、風吹ジュン)を軸に、老父母、夫や恋人も含めた赤裸々な人間模様が映し出される。

謹厳実直なはずの父親(佐分利信)に愛人と子供がいたことが判明して騒動となり、その過程で家族それぞれが抱える秘密も明かされる展開は衝撃的で、向田ドラマの代表作の一つとなった。メインの演出家は『天城越え』や『けものみち』などでも知られる和田勉だった。

『あ・うん』、小説集『思い出トランプ』

昭和55年(1980)、「小説新潮」2月号で連作の読切小説『思い出トランプ』の連載が始まった。向田に小説を書くよう勧めたのは、当時の「小説新潮」編集長である川野黎子だ。向田と川野は実践女子専門学校の同級生だった。

同じ55年3月に、『阿修羅のごとく』と並ぶ向田ドラマの名作『あ・うん』(NHK)が放送された。舞台は昭和初期の東京。主な登場人物は水田仙吉(フランキー堺)と妻のたみ(吉村実子)、仙吉の親友である門倉修造(杉浦直樹)の三人だ。

門倉は心の中でたみを想っており、その気持をたみも仙吉も知っている。しかし門倉はそれを言葉にしたり行動に移したりしない。不思議な均衡の中で過ぎていく日々を水田家の一人娘、18歳のさと子(岸本加世子)の視点で追っていく。

向田脚本のきめ細かい感情描写をもとに、深町幸男を軸としたディレクター陣が見事に映像化した。テレビドラマの歴史に残る1本だ。

さらにこの年の7月、「小説新潮」に連載中で、まだ単行本にもなっていない『思い出トランプ』の中の短編「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で、第83回直木三十五賞を受賞する。

28歳で脚本家としてデビューした向田は、50歳で直木賞作家となったのだ。そこから脚本、エッセイ、小説を同時進行で書く超人的な日々が始まるが、台湾での不慮の死は直木賞受賞からわずか1年後のことだった。

『蛇蠍のごとく』、『隣りの女』、『続あ・うん』

昭和56年(1981)は、向田邦子の人生で最も忙しい年だった。年明け早々にドラマ『蛇蠍(だかつ)のごとく』(NHK)が放送された。

2月にドラマ『隣りの女―現代西鶴物語』(TBS)のロケハンでニューヨークに飛び、戻ってから広島で講演。3月には再びニューヨークでロケハン。『隣りの女』が放送され、『続あ・うん』(NHK)も始まり、小説『あ・うん』が書店に並んだ5月にはベルギーへの旅に出る。

6月、「週刊文春」で連載エッセイ『女の人差し指』を開始。「小説新潮」の連作小説『男どき女どき』の連載が始まったのが7月だ。8月になると野呂邦暢の小説『落城記』をドラマ化するプロデューサーの仕事で京都へ。さらに四国での霊場巡りも体験した。

そして8月20日、向田は取材のための台湾旅行に出発する。運命の飛行機事故に遭遇したのは2日後の8月22日だった。享年51。そのエッセイを初めて読んだ時、「突然あらわれてほとんど名人」と賛辞を贈ったのは山本夏彦だが、向田はまたも突然、そして名人のまま旅立ってしまったのだ。

浮上する向田邦子

あれから40年が過ぎた。しかし向田邦子の脚本もエッセイも小説も、その輝きを失っていない。いや、それどころか、今こそ向田の眼差しが求められているのではないか。

昨年からのコロナ禍の中で、私たちは生きる基盤としての「家庭」や「家族」を再認識するようになった。向田邦子が描き続けた「家族」というテーマが、40年の時を経て浮上してきたように思えるのだ。確かに、「いま、風が吹いている」のかもしれない。

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 5568

Trending Articles