9月4日は萩元晴彦さんの命日でした。1930年、長野県生まれ。早稲田大学文学部露文科卒。ラジオ東京(現在のTBSテレビ)に入社し、ラジオそしてテレビ番組の制作に携わります。
やがて1970年に仲間と共に日本初の番組制作会社テレビマンユニオンを創立。数々のプロデュースを行っていきます。その仕事はテレビの枠を超え、幅広い文化の創造に寄与するものでした。
亡くなったのは2001年、享年71。
没後13年を機に、プロデューサー萩元晴彦の軌跡をふり返り、そして次代に伝えたいと思います。
没後13年
稀代のプロデューサー「萩元晴彦」小伝
第2回
テレビの可能性を拡げる
「萩元さん、ひとつ仕事をお願いできますか?」―そう声をかけてきたのは読売テレビ東京支社長(当時)の中野曠三である。場所は銀座のバー。70年2月の創立から間もないころの話だ。
当時、ディスカバー・ジャパンというキャンペーンを展開しようとしていた国鉄をスポンサーに、旅番組をやりたいというのだ。中野は萩元の飲み友達だが、『巨人の星』『細腕繁盛記』などを手がけた辣腕営業マンでもあった。
「お話を承ります」と言って、ノートを拡げて身構えた萩元。それが現在も放送中の『遠くへ行きたい』が生まれた瞬間だった。
萩元は、この番組を、名所旧跡を巡る単なる観光PR番組にはしなかった。旅のドキュメンタリーとしたのである。演出の今野勉によれば、「移動する旅人を撮ることであり、旅人と旅先で出会った人との会話を撮(録)る」番組だった。まだ小型ビデオカメラがない時代で、ロケは16ミリフィルムカメラで行われた。
放送開始からの半年間、番組は旅をする永六輔を追い続けた。その後、五木寛之、野坂昭如などの作家や文化人が続々登場し、予定調和とはほど遠い異色のドキュメンタリーとして評判になる。
やがて、渡辺文雄、藤田弓子といった旅巧者のレギュラー陣も視聴者の間に浸透し、その後40年以上も続くことになる長寿番組の基礎が固まっていった。
新たなクラシック番組の開拓
『遠くへ行きたい』がスタートしてから2年後、1972(昭和47)年に、萩元は新たなレギュラー番組のプロモートに成功する。電々公社(現NTT)をスポンサーとする『オーケストラがやって来た』である。
NHKはともかく、民放ではクラシック番組の数は少ない。しかも、ほとんどがコンサートの中継録画だ。そんな中で、日本各地に本物のオーケストラがやって来て、クラシックの楽しさをやさしく伝えてくれる公開音楽番組は画期的なことだった。
この時、萩元が掲げたプロデュース方針は「一流の演奏家に良い演奏とわかりやすい話を」である。事実、小澤征爾、アイザック・スターンをはじめクラシック界の巨星たちが、相次いでこの番組に登場した。
そしてもう一つ大事なことは、萩元が、五嶋みどり、相沢吏江子など後にクラシック界をリードしていくことになる多くの新星たちを、この番組で紹介し応援していったことだ。
『オーケストラがやって来た』は、1983(昭和58)年まで11年間、544回も続き、萩元の代表作の一つとなった。
音楽への尊敬と愛情は、野球へのそれと共に、萩元の重要なDNAだ。『オーケストラがやって来た』以外にも、何本もの優れたクラシックスペシャルを創り上げている。
1978(昭和53)年に『北京にブラームスが流れた日〜小澤征爾・原点へのタクト〜』、1981(昭和56)年にはTBS創立30周年記念特別番組として、5夜連続の『カラヤンとベルリンフィルのすべて』を制作した。
特にベルリンフィルについては、その組織形態と運営方針を、テレビマンユニオンを創立する際、大いに参考にしたと萩元は語っている。
一人一人がソロ活動を出来るほどに力を持つメンバーの集団。ゆるやかな連帯と自己責任。テレビマンユニオンの目指すところを体現している先達として、ベルリンフィルを尊敬していたのだ。
また、小澤征爾や今井信子をはじめ、数え切れないほど多くの才能を育てたのが桐朋学園の斉藤秀雄だ。1984(昭和59)年に、斉藤のかつての教え子たちが集まり、記念コンサートを行うことになった。後年、「サイトウキネン・オーケストラ」として発展していく活動の第1回目である。
萩元は演出に実相寺昭雄監督を起用し、精鋭たちが世界各地から母校に帰ってくる瞬間から練習風景、小澤征爾へのインタビュー、そして聴く者の魂も震えるような本番での至高の演奏までを、全てカメラに収めた。
スペシャル番組『先生!聞いてください〜斎藤秀雄メモリアルコンサート』の制作は、後に萩元がテレビプロデューサーという枠を超え、一人の「音楽プロデューサー」として歩み始める転機となった。
(以下第3回に続く 文中敬称略)