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「評伝」の面白さ~瀬戸内寂聴さんをめぐって

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本のサイト「シミルボン」に、以下のコラムを寄稿しました。
https://shimirubon.jp/columns/1674123


瀬戸内寂聴さんをめぐる「評伝」の面白さ
評伝や伝記は面白い。作家という種族を描いたものは特にそうだ。

瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』(日本経済新聞出版社)を読んでいると、何度も「うーん」と唸ってしまう。このシリーズでは瀬戸内さんが直接出会った人々を回想しているのだが、1冊目となった本書には、谷崎潤一郎や川端康成はもちろん、驚くべし、”生きた近代文学史”といえるような、島崎藤村や正宗白鳥までリアルタイムの人として登場するのだ。

そして、もう一つ、唸ってしまうのは、文士と呼ばれる人たちのアナーキーというか大胆というか、その“暴走的恋愛”の凄まじさである。

有名なところでは、谷崎潤一郎。妻である千代の妹のせい子を引き取って同居させ不倫の関係になって千代を冷たく扱う。谷崎の親友だった佐藤春夫は千代に同情し、やがて恋愛関係となり、結局二人は夫婦になってしまう。いわゆる「妻譲渡事件」だ。

女流作家も、たとえば東郷青児や北原武夫と結婚してきた宇野千代など天晴れというしかない。

瀬戸内さんが一枚の紙に文士たちの名前を書いて、宇野千代に直接聞いてみた。「先生、この方とは・・」という問いに、千代先生は速攻で「寝た」とのお答え。以下、ネタ、ネナイの連発。そしてネタという答えが圧倒的に多かったというのだ。

笑えるのは、梶井基次郎について尋ねると「寝ない!」と言い、「わたし面食いなの」と続く。宇野千代が85歳になってから書いた、『生きて行く私』を再読したくなった。

この本の中には荒畑寒村も登場するが、そこで語られる「名前」がすごい。というか、豪華だ。

寒村は「菅野須賀子」と結婚するが、寒村が「堺利彦」や「大杉栄」らと共に投獄されている間に、須賀子は「幸徳秋水」とデキてしまう。後に大杉栄は関東大震災の際に、「伊藤野枝」と共に虐殺されるが、その野枝は「辻潤」の妻でありながら、「神近市子」から大杉を奪ったのだ。怒った神近は葉山の日陰茶屋で大杉を刺してしまう。

このあたりは瀬戸内さんの『美は乱調にあり』を思い出す。いわば大正・昭和の歴史的人物たちが織り成す恋愛模様なのだ。

それにしても、当時、彼ら、彼女らは、どうやって相手と連絡を取り合っていたんだろう。携帯やメールどころか、普通の電話だって簡単に使える時代じゃない。いや、電話や手紙も「人妻」や「人夫(?)」に対しては、まずいだろう。うーん、謎です。

横尾忠則さんが各章に描いた、文士たちの肖像画も実にゼイタクだ。

”逸脱のひと”瀬戸内寂聴

瀬戸内寂聴さんをめぐる評伝を、もう一冊。

いい本を読み終わったときの、心地よい余韻というか、虚脱感にも似た疲労感は、本の内容そのものが与えてくれる喜びとはまた別の、うれしいオマケのような気がする。

たとえば、齋藤愼爾『寂聴伝~良夜玲瓏』(白水社)だ。

この本が出た時、86歳だった(現在94歳)瀬戸内寂聴さんの、それまでの軌跡をたどった本格評伝である。400ページを超す長編であり、小説のようにストーリーに「おんぶにだっこ」で身をゆだねて、というものではないので、じっくりと時間をかけて読むのが正解。

ただ、読み終わっても、まとまった感想にならず、断片的な言葉しか浮かばない。それは、やはり瀬戸内寂聴という作家の実人生に圧倒されるからだろう。

自分は、瀬戸内作品の熱心な読者とはいえない。だが、それでも、大杉栄と共に関東大震災直後に殺された伊藤野枝を描いた『美は乱調にあり』などの伝記小説や、『夏の終り』など自伝的作品群の双方を、それなりに読んできた。

しかし、この評伝によって、あらためて、作家・瀬戸内寂聴の「凄み(魅力と言い換えてもいい)」を知ったような気がするのだ。

たとえば、「夫と幼い娘を捨てて家を出て、文学と恋愛へと走った」というような、一般的に流布されている瀬戸内さんの過去。その内実を知ることもなく、単に卑俗的な、スキャンダラスな図式の中に、勝手に落とし込んで分かったような気でいた部分が、この本を読むことで、いくつも払拭された。

冒頭で、齋藤さんは書く。「寂聴をひとことでいえば<逸脱する作家>ということになろう」と。

かつて政治学科の学生だった私は、「日本政治史」の授業の中で、幸徳秋水や大杉栄などを知った。さらに、そこから菅野須賀子や伊藤野枝を知った。彼らの著作や、彼らについて書かれた文献を読んでいったが、実は最も熱心に読んだのが瀬戸内さんの小説『遠い声』であり、『美は乱調にあり』だったのだ。特に作品のタイトルにもなった、大杉栄の言葉が強く印象に残った。

「美はただ乱調にある。諧調は偽りである」

そこには、近い過去に生きた、なまなましい男や女がいた。彼らは、皆、どこか「過剰の人」だった。いや、「逸脱の人々」だった。そこに魅力があった。

この『寂聴伝』を通読して打たれるのは、過去も、そして現在でさえも、瀬戸内さん自身が「逸脱の人」であリ続けていること。本書が書かれた当時、すでに出家して35年を経ていたが、それでもなお、「僧にあらず俗にあらず」を体現しているのだ。

それから、本文中に登場するこの言葉も忘れられない。

「世間を裁判官としない」

伊藤野枝の夫だった辻潤をめぐる記述に出てくるが、瀬戸内さんをも見事に表現していると思う。

優れた評伝作家でもある瀬戸内さんの「評伝」を書くことが、どれほど大変なことか。それは想像するしかないが、齋藤さんは見事にそれを達成されたのだ。共感と尊敬の念に流されず、対象を直視する姿勢にも感心した。

うーん、やはり評伝は面白い。

(シミルボン 2016.09.01)

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