「大河ドラマ降板」が「北の国から」を生んだ
倉本聰が明かした秘話
現在放送中のNHK大河ドラマ「いだてん」の脚本家は宮藤官九郎。一般に大河ドラマの脚本を担当することは一種の名誉、あるいはステイタスだと見なされている。
そんな大河ドラマの脚本を担当したにもかかわらず、途中降板した脚本家がいることを、年配のドラマ好きならばご存知だろう。
倉本聰(そう)。「前略おふくろ様」「北の国から」「やすらぎの郷」等々、テレビドラマ界に金字塔を打ち立ててきた巨人である。
倉本氏はまだ30代の時に大河ドラマ「勝海舟」の脚本を依頼される。母親は赤飯を炊いて喜んだ、という。それなのになぜ降板することになったのか。
新著『ドラマへの遺言』(碓井広義氏との共著)では、倉本氏を師と仰ぐ碓井氏を前に、その当時の秘話をたっぷり語っている。
以下、同書をもとに見てみよう。
「勝海舟」は1974年の大河ドラマ。主役の勝海舟には渡哲也、坂本龍馬に藤岡弘、、岡田以蔵には萩原健一、といったキャスティングだった。
倉本氏は、このドラマのために当初、脚本家の域を超えて貢献ぶりを見せていた。たとえば収録がはじまってまもなく、主演の渡哲也が病気のために降板するという緊急事態が発生したのだが、その際、代役のキャスティングのために奔走したのも倉本氏である。代役は松方弘樹。前年には「仁義なき戦い」も公開され、人気も高まっていた頃だ。
「でも最初、NHKは松方をキャスティングできなかったんです。当時は売出し中で、大阪のコマ(梅田コマ劇場)に出ていた。“俺、口説いてこようか”って聞いたら、“口説ける?”って言われて“分かんないけどやってみるよ”。それで東映の本社に乗り込んで、岡田茂さん(東映社長)に直談判したんです。かくかくしかじかで“非常に困ってるんです”って言ったら、本人次第だと。岡田さんが“今から大阪行けるかい?”って言うから“行けます”って。“じゃあ俺電話入れておくから本人を口説いてくれ”と。それで、すぐ新幹線に飛び乗って大阪へ」
面識はあったのかといえば――
「全くないけど、コマへ行ったら松方が待っててくれた。僕が入っていくと“岡田社長から聞きました”って。僕が岡田さんを知ったのは京都の撮影所長時代だけど、その頃はもう社長だったな。それで松方は“やらせていただきます”と即答。僕が新幹線に乗っている間に岡田さんがいろいろクリアしてくれて、松方の返事も早かった」
この時点では、大河ドラマを救った功労者だったのだ。このドラマで、松方は結婚相手も見つけることになる。
「渡と代わったばかりの松方と、こともあろうに仁科明子(現・亜季子)がくっついちゃった(笑い)。明子のおふくろさんがうちに来てね、“お恨み申し上げます。何で松方さんを使ったんですか”と迫る。そんな恨まれたって僕が別にあれしたわけじゃないんだけど、“先生のせいです”ってえらい恨まれて。マスコミに騒がれて明子は行方不明になっちゃうし。僕もあれには参った」
それにしても、ここまで貢献していたのになぜ降板することになったのか? この疑問に、倉本氏はこう答える。
「それを出過ぎだっていうふうに若いディレクターはとったんでしょうね。つまり、僕に何かを頼むのはプロデューサーたちでしょ。プロデューサーは管理職で、現場はみんな組合員なんですよね。組合員と外部の倉本聰、どっちを大事にするんだって、プロデューサーが詰め寄られちゃった。しかも当時は力のあった民青(日本民主青年同盟)が組合を牛耳ってたから、本当に大変でしたよ」
現場で不興を買ったのは、キャスティング問題だけではなかった。
倉本氏は、自分が書いたドラマのホン読み(台本の読み合わせ)に参加することで知られている。一般的にホン読みに脚本家は呼ばれないのだが、自ら参加してセリフの言い回しやトーン、緩急や間の取り方などを確認するのが、倉本氏の流儀だった。しかし、これが「演出の領域に踏み込む行為だ」とディレクターの反発を買ったのだ。
さらに、女性週刊誌に「大河脚本家がNHK批判」というインタビュー記事が掲載されたことで、対立は決定的なものに。記事を読んだスタッフから総攻撃を受けた倉本氏は、羽田から札幌に飛んでしまう。
「1974年の6月ですね。記事が載った週刊誌『ヤングレディ』が出た日だから、よく覚えています。札幌にいたのは結局3年かな。2年目くらいから本気で居場所を探して北海道中を歩き回った」
ただ、この段階では倉本氏は降板していない。北海道でも脚本を書き続けていたという。
「でもね、NHKがもう代役の作家を立ててるって話は聞きました」
さらに、札幌での不摂生が祟り、肺炎を患い、東京の病院に入院することになってしまう。
「札幌じゃ、ひとりで飲み歩いてたからなあ。結局NHKからは、病気降板という形で大河を降りたことにしましょうという話がありました。制作側と喧嘩したのが6月ですよね。でもそのあと9月くらいまでは書いてたんです」
従って、巷間伝えられていたように倉本氏が自ら降板したのではなく、正確にはNHK側の都合で降板させられた、というのが真相のようだ。さて、病気から快復した倉本氏は再び北海道に戻る。1977年には富良野に移住。
そしてあの「北の国から」が生まれるというわけだ。大河ドラマのトラブルが、結果的には歴史的名作を生むきっかけになったのである。
(デイリー新潮 2019年2月27日)
ドラマへの遺言 (新潮新書)倉本聰、碓井広義新潮社