<週刊テレビ評>
「少女たちがみつめた長崎」
鎮魂と継承、林京子の意志
戦後74年の夏が終わろうとしている。日本の8月は、「鎮魂」と「継承」の月だ。継承すべきは、戦争という事実はもちろん、その体験と記憶である。
今年の8月4~18日の2週間、民放テレビには鎮魂も継承も見当たらなかった。いわゆる戦争特番、終戦特番と呼ばれる放送がほぼなかったのだ。
実は昨年も同様で、この沈黙がとても気になる。かつてはタレントなどを起用した、民放らしい特番が流れたものだ。手間と予算がかかる割に視聴率を稼げない、つまり商売にならないと判断しての通常編成なら、ジャーナリズムとしての役割放棄だ。
いや、役割放棄ならまだいい。戦争というテーマを「取り上げないこと」自体が民放テレビの意思だとしたら、問題はもっと深刻だろう。マスメディアの影響力は、何かを「伝えること」だけにあるのではない。何かを「伝えないこと」による影響もまた大きいからだ。
たとえ8月であっても戦争を扱った番組を流さないとなれば、視聴者が戦争を話題にすることも、平和について考える機会も少なくなる。民放テレビに「伝えないこと」の意図があるなら知りたい。
一方、NHKは前述の2週間に、7本のNHKスペシャルを含む十数本の戦争関連番組を流した。その全部を視聴した上で取り上げたいのが、17日放送のETV特集「少女たちがみつめた長崎」だ。
タイトルの「少女たち」には二重の意味がある。一つは昭和20(1945)年8月9日に勤労動員先で被爆した、当時の長崎高等女学校(長崎高女)の生徒たち。そしてもう一つが現在の長崎西高校(旧長崎高女)放送部の生徒たちだ。
放送部の面々は、「原爆と女性」をテーマにしたドキュメンタリー番組を制作している。その過程で、生存者である大先輩たちの話を聞いていくのだ。
また今年88歳になる少女たちが大切に保存していた、当時の日記も74年の時を超えて両者をつないでいく。そこに記された「血!血!真っ赤な血!(中略)夢であってくれ」といった肉声を、現在の少女たちが朗読していくシーンは圧巻だ。
そして、このドキュメンタリーを下支えしていたのが、作家の故林京子の存在である。長崎高女在学中に被爆した林は、戦後30年を経て、ようやく原爆のことを書く。生き残ったことへの罪悪感や原爆症への不安を抱える林だが、「伝えること」を自らに課したのだ。そんな彼女の文章も挿入しながら番組は進んでいく。
生ける新旧少女たちの思いと、死せる作家の魂が互いに響き合い、見ている側も何事かを考えずにはいられなくなる秀作となっていた。
(毎日新聞夕刊 2019.08.24)