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ついに『やすらぎの刻~道』完結…倉本ドラマは「名言」の宝庫である

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ついに『やすらぎの刻~道』完結

倉本ドラマは「名言」の宝庫である

 

ゴール間近の『やすらぎの刻(とき)~道』

昨年4月にスタートした、帯ドラマ劇場『やすらぎの刻~道』(テレビ朝日)。1年間という長丁場も、いよいよゴールが近づいてきた。

このドラマは、2017年の『やすらぎの郷』の続編であると同時に、主人公の老脚本家・菊村栄(石坂浩二)が発表のあてもないまま書いている、シナリオ『道』の物語も映像化するという、画期的な「二重構造」の作品だ。

『道』は、戦前の山梨に始まり、昭和、平成、そして現在放送中の令和まで、ある庶民一家の歩みを、この国の現代史と重ねながら描いてきた。こちらの主人公は根来公平。若い頃を風間俊介が、そして壮年期以降は橋爪功が演じている。

二つの物語を動かしているのは、もちろん脚本家の倉本聰だ。倉本は、ある時は菊村栄を通じて、またある時は根来公平の口を借りて、人間や社会に対する自身の思いや考えを、見る側に伝えてきた。それは主に登場人物たちの「台詞(せりふ)」に込められている。

たとえば、少年時代に終戦を迎えた菊村は、戦後の復興から現在までのこの国を見てきた。そして今、こんな感慨を胸の内に秘めているのだ。

「私は大声で叫びたくなっていた。君らはその時代を知っているのか! 君らのおじいさんやおやじさんたちが、苦労して瓦礫を取り除き、汗や涙を散々流して、ようやくここまでにした渋谷の路上を、なんにも知らずに君らは歩いてる! えらそうにスマホをいじりながらわが物顔で歩いてる! ふざけるンじゃない! あの頃君らは、影も形もなかったンだ! 影も形もなかった君らが、でっかい面して歩くンじゃないよ!」

こんな台詞が出てくるドラマ、そうはない。

倉本ドラマは「名言」の宝庫

ドラマの「脚本」を形づくる、主な構成要素は三つだ。「柱(はしら)」、「ト書き(とがき)」、そして「台詞(せりふ)」である。柱は、その場面(シーン)が昼なのか、夜なのかといった「時間」や、何処(どこ)で展開されているのかという「場所」を指定したものだ。たとえば、「シーン№6 上智大学7号館入り口(朝)」などと書く。

ト書きは、登場人物の動きや置かれている状況を説明するためにある。その呼称は、『「おはよう」と言いながら花子に駆け寄る太郎』の「と」から来ている。「おはよう」までは台詞で、「と」以下がト書きだ。最後の要素、台詞については説明するまでもない。劇中の人物たちが口にする、すべての言葉である。

小説であれば、登場人物がどんな人間で、どのような状態にあるかはもちろん、その心理も含め、あらゆることを自由に書くことが出来る。それに比べると、ルールに則(のっと)り、柱とト書きと台詞だけで表現する脚本は、一見かなり不自由で、同時に制約があることで逆に自由だったりする創作物だ。

三要素の中で最も重要なのは台詞である。なぜなら、台詞が物語を駆動させていくからだ。誰が、どんな状況で、誰に向かって、何を言うのか。台詞は、たとえたったひと言であっても、物語の流れを変えたり、ジャンプさせたり、場合によってはドラマ全体に幕を下ろしたりする力を持っている。

台詞の中に、そんな「言葉の力」が凝縮されているのが、倉本聰の脚本だ。いわゆる「説明台詞(せつめいぜりふ)」など皆無であり、あらゆる台詞に背景がある。言葉の奥に、それを語る当人の見えざる過去があり、進行形の現在がある。その場面、その瞬間、その台詞を言わねばならない必然がある。

しかも、架空の人物たちである彼らが語る言葉に、現実を生きる私たちをも揺さぶる、普遍的な真実が込められている。一つ一つの台詞が、いわば「人生のヒント」であり、倉本ドラマ全体が「名言」の宝庫なのだ。

倉本ドラマが描く「人間」「人生」

倉本聰が書いてきた作品を、人間や人生といった視点で読み直していくと、まず浮上してくるのが『文五捕物絵図』(NHK、1967年)だ。

ニッポン放送を退社してフリーとなった倉本が、複数の脚本家たちと競い合うように書いたドラマであり、その名前が注目された記念すべき一本である。

当時、現代劇には社会的テーマや表現の面で制約が多かったが、時代劇はかなり自由だった。江戸の岡っ引きである文五(杉良太郎)を通じて、倉本は現代にも通じる普遍的な人間の姿を生々しく描いている。たとえば、ふと文五がつぶやく言葉。

「人と人が信じ合わなくなったらこの世は何と暗くなることか」

格差社会、分断社会といわれる、生きづらい現代社会とそこに生きる私たちに対する警鐘にも聞こえる。

この時、倉本は32歳。人間を見る透徹した目がすでに具わっていたことに驚く。それから半世紀以上も書き続けている倉本だが、どうしようもない弱さや醜さも含め、「愛すべきもの」として人間を捉える姿勢は今も変わらない。

その象徴の一つが、『やすらぎの郷』で菊村栄(石坂浩二)に言わせた台詞だろう。

「〝人生は、アップで見れば悲劇だが、ロングショットでは喜劇である〟と、チャーリー・チャップリンが云っている」

このチャップリンの言葉こそ、倉本自身の創作の指針であり、人生哲学でもある。

倉本ドラマの中の「男と女」

倉本聰は、俳優や女優たちと徹底的につき合ってきた脚本家だ。特に自分の作品に出てもらう役者たちについては、その人間性はもちろん、口調やしぐさの癖まで熟知した上でないとペンを取らなかったと言う。「シナリオは役者へのラブレター」というのが持論だ。

そして一旦執筆に入れば、倉本はシナリオの中で妙齢の女性となったり、頑固な老人へと変身したりする。男の気持ち、女の思い、さらに男女の機微にも、絵空事ではないリアルな情感が込められていく。それは倉本の役者に対する「疑似恋愛」の成果だ。

『拝啓、父上様』(フジテレビ、2007年)で、作家役の奥田瑛二に言わせた台詞がある。

「恋だけは年中しようとしてます。それがなくなったら終わりだという気がしてね」

それは、今も静かなる〝男の色気〟を漂わす、倉本自身の密かな信条かもしれない。

同時に、女の愛しさと怖さを熟知しているのもまた倉本だ。35歳の時に書いた、『わが青春のとき』(日本テレビ、1970年)では、ヒロインの樫山文枝がこんな告白をする。

「男は知りません。女は、ある時、人を恋したら、仕事も、使命も、道徳も、社会も、何もかも投げうつことができる」

面白いのは、「女性の前に出ると少年に戻ってしまう」と倉本自身が語っていることだ。12歳以上の女性は全て「お姉さん」に見え、自分が見透かされたような気分になるという85歳。この奇跡の純情があるからこそ、倉本ドラマの男も女も魅力的に映るのだろう。

倉本ドラマにおける「親子」「夫婦」

倉本聰の代表作の一つに、『前略おふくろ様』シリーズ(日本テレビ、1975~76年)がある。東京で板前修業中の主人公、サブこと片島三郎(萩原健一)が、故郷にいる母(田中絹代)に向かって語り掛けるナレーションが秀逸だった。

父を早くに亡くした倉本にとって、母はずっと大切な存在だった。このドラマの中でも、自分を気遣ってくれる母に対して、サブが逆に気遣う印象的な台詞がある。

「遠慮することなンてないんじゃないですか。あなたの実の息子じゃないですか」

もう一つの代表作、20年以上も続いた『北の国から』シリーズ(フジテレビ、1981~2002年)は、まぎれもない「父と子」の物語だ。

このドラマがスタートする数年前、倉本は東京から北海道の富良野へと移住した。原生林の中に家を建て、冬は零下20度という見知らぬ土地で暮らし始めたのだ。ドラマで描かれていた黒板五郎(田中邦衛)の苦労も、純(吉岡秀隆)の戸惑いも、実は倉本自身のものだった。

父への反発や反抗もあった純だが、やがて「父さん。あなたは――すてきです」と胸の内で五郎に語りかけるようになる。サブも純も蛍(中嶋朋子)も、そしてサブの母も黒板五郎も、皆、倉本の分身なのだ。

それはドラマの中の夫婦像も同様である。『やすらぎの郷』で、大納言こと岩倉正臣(山本圭)が言う。

「だけど女房なら、若い頃より、――死ぬ間際の老けた女房にオレは逢いてえ」

この言葉、倉本にとっての実感でもあるはずだ。

倉本聰にとって、「創る」とは

倉本聰は、60年以上もテレビと芸能界を内側から見てきた。そんな「生き証人」の目に、現在のテレビはどう映っているのか。

『やすらぎの郷』では、芸能界のドンと呼ばれる加納英吉(織本順吉)が憤っていた。

「テレビが出た時、わしはこの機械に、自分の未来を賭けようと思った。テレビはあの頃、輝いていた。なア先生。汚れのない真白な処女だったぜ。それを、銭儲けばかり考えて、売女(ばいた)に堕(おと)したのは誰だ――!」

倉本が脚本を書く時、最も大事にしている作業が、登場人物の「履歴」作りだ。いつ生まれ、どのように育ち、誰と出会い、何をしてきたのか。まるで実在の人物を扱うように詳細な履歴書を作成していく。

ドラマの中で、それぞれの過去を持つ人物同士が出会う。そこで生まれる化学反応こそが物語を動かす力だ。倉本の分身ともいえるベテラン脚本家、菊村栄(石坂浩二)も『やすらぎの刻~道』の中で言っている。

「樹は根に拠って立つ。されど根は人の目に触れず、一見徒労なその作業こそが、ドラマを生み出す根幹なのだ」

愛用の200字詰め原稿用紙を、ひと文字ずつ、特徴のある書体で埋めていく倉本。そうやってゼロから何かを生み出す恍惚と不安を味わい続けてきた。

『玩具の神様』(NHK、1999年)の偽脚本家、ニタニツトム(中井貴一)が色紙に記している。

「創るということは遊ぶということ」

倉本こそ、永遠の「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」なのかもしれない。

 


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