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Channel: 碓井広義ブログ
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没後13年 稀代のプロデューサー「萩元晴彦」小伝 第3回

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Lahaina,Maui,2014

9月4日は萩元晴彦さんの命日でした。1930年、長野県生まれ。早稲田大学文学部露文科卒。ラジオ東京(現在のTBSテレビ)に入社し、ラジオそしてテレビ番組の制作に携わります。

やがて1970年に仲間と共に日本初の番組制作会社テレビマンユニオンを創立。数々のプロデュースを行っていきます。その仕事はテレビの枠を超え、幅広い文化の創造に寄与するものでした。

亡くなったのは2001年、享年71。

没後13年を機に、プロデューサー萩元晴彦の軌跡をふり返り、そして次代に伝えたいと思います。


没後13年 
稀代のプロデューサー「萩元晴彦」小伝 
第3回

大型ドキュメンタリードラマへの挑戦

再度、萩元の70年代後半に戻ろう。この時期も、萩元は放送の歴史に残る大仕事をしている。日本初の3時間ドラマの実現だ。1977(昭和52)年にTBSから放送された『海は甦る』である。

主人公は日本海軍の父と呼ばれた山本権兵衛。原作者は山本の孫に当たる江藤淳。日露戦争の日本海海戦を背景にした、日本海軍の人々とその家族の物語だ。時の海軍大臣だった山本をはじめ、連合艦隊司令長官・東郷平八郎、参謀の秋山真之、旅順港閉塞作戦の広瀬武夫といった、多彩な人物が織り成す壮大な叙事詩だった。

実は、この番組の成立には前段がある。放送から2年前の1975(昭和50)年、萩元がプロデュースし、今野勉が演出した『欧州から愛をこめて』(日本テレビ)がテレビ界に大きな衝撃を与えていた。太平洋戦争の終結をめぐる秘話を描くこの番組で、萩元たちは史実を探るドキュメンタリーと、史実を再現するドラマとを見事に融合させ、後に「ドキュメンタリードラマ」の先駆けと呼ばれる一本となった。

たとえば、実在の人物である元海軍武官・藤村義朗本人が、彼を演じる俳優と共に画面に登場した。藤村役には、萩元が親友の仲代達矢を起用したが、仲代もこの大胆な演出には緊張したという。

『欧州から愛をこめて』の成功によって、この後、テレビマンユニオンは『燃えよ!ダルマ大臣〜高橋是清』(フジテレビ)、『B円を阻止セヨ!』(フジテレビ)など一連のドキュメンタリードラマを制作することになる。『海は甦る』は、いわばその集大成だった。

『海は甦る』のスポンサーは日立、広告代理店は電通、制作がテレビマンユニオン、そして放送局はTBSだ。この“座組み”は、約10年後の1986(昭和61)年に始まることになる『世界ふしぎ発見!』とまったく同じである。制作する一本一本の番組こそが、作り手にとって最大最強のプロモーションであることを、萩元は熟知していた。

1987年当時、日本のテレビ界には「長時間ドラマ」という概念も実例も存在しなかった。しかし、原作者の強い後押しなどもあり、萩元たちは夜9時から12時という3時間の一挙放映を実現させる。

そもそもプロデューサーとは何をする人か? 煎じ詰めれば「ひと・もの・かね」に責任を持つのが仕事である。最初の「人」には二種類ある。俳優やタレントなど番組に出る人(キャスト)と、創る人(スタッフ)を誰にするか、プロデューサーはその決定権を持っている。次に、「もの」は中身・内容だと言える。どんな番組にするのか、その内容を決めなくてはならない。最後の「金」もまた二つある。入ってくる金(予算確保)と、出て行く金(予算管理)に責任を持つことだ。

萩元は、『欧州から愛をこめて』に続いて仲代達矢を山本権兵衛に、その妻には吉永小百合、娘に大竹しのぶ、さらに広瀬武夫を加藤剛が演じるという豪華キャストを配した。演出はもちろん今野勉ディレクター。制作予算も、当時としては破格の8千万円を確保した。国内だけでなく、レニングラードでも撮影を行ったが、ロシアでのロケは日本のテレビ界では初のことだった。

視聴者にとって三時間という未体験の長さを心配する声もあったが、放送してみると30%近い高視聴率を獲得した。演出の今野の証言を借りれば、「放送日の翌朝、この数字が明らかになった瞬間、3時間ドラマは社会現象となった」のである。

3時間ドラマという“新たなジャンル”は、「日本の近代化時代の家族」というコンセプトで統一され、シリーズ企画となった。その後の5年間に、テレビマンユニオンとTBSがそれぞれ5本ずつ、計10本が制作された。

音楽プロデューサーとして

『先生!聞いてください〜斎藤秀雄メモリアルコンサート』を制作した1984(昭和59)年に、萩元は東京・赤坂に出来た「サントリーホール」のオープニング・シリーズ総合プロデュースを依頼される。クラシック音楽に対する造詣。一流の演奏家たちとの交流と信頼関係。確かに、萩元ほどの適役はいなかった。

真新しいステージで、ウィーン・フィルがベートーべンの第2番と7番を演奏し、内田光子がピアノの鍵盤に向かい、御喜美江がクラシック・アコーディオンを奏でた。さらに、当時の世界中の作曲家に新作を委嘱して、それを演奏するという企画もあった。武満徹、ユン・イサン、ヤニス・クセナキス、そしてジョン・ケージまでがこれに参加したのである。

そして2年後、サントリーホールの立ち上がりを見届けた萩元は、主婦の友社が御茶ノ水に開設する新しいホールの総合プロデューサーに就任する。以前から室内楽への想いを抱いていた萩元は、そこを日本では珍しい室内楽専用ホールとすべく尽力した。

特に、ホールの名前を、敬愛する世界的チェロ奏者にちなんで「カザルスホール」とすることは萩元の夢だった。しかし、パブロ・カザルスの未亡人は、それまで世界中からの同様の要請をすべて断り続けていた。

1987(昭和62)年1月、萩元は米国ワシントンに飛ぶ。カザルス未亡人であり、当時ワシントンのケネディセンターでパフォーミングアーツの責任者を務めていたマルタ・イシュトミンに会うためだった。

萩元の申し出をじっくりと聞いたイシュトミン夫人は、静かな声でこう答えた。「カザルスの名前を冠するには、カザルスの意志を志すホールにすることが必要です。それが満たされる限り、彼の名前を用いてかまいません。費用もいりません。ただし、この意志の反映が見られなくなったとき、カザルスの名前は返上していただきます」。

そして、「意志の反映」の具体案を萩元に求めてきた。萩元は答える。「よくプランニングされたホール主催のコンサートシリーズがあること。レジデント・アーティスト(ホール所属の演奏家)を持つこと。若手音楽家育成のプログラムがあること。そして、チェロのシリーズ・プログラムがあることをお約束します」。萩元がこの日のために周到な準備をした完璧なプレゼンテーションだった。

夫人は萩元の説明を聞き終わると、躊躇することなくこれに同意した。また、同時に、付帯条件を加えてきた。それは「今の提案について、ミスター・ハギモトがこれに関わり、その保証をすること」だった。

「カザルスホール」は、こうして生まれた。萩元は夫人との約束を固く守り、この「音楽と音楽家に献身するホール」の仕事を晩年まで大切にした。

(以下最終回に続く 文中敬称略)

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