Lahaina,Maui,2014
9月4日は萩元晴彦さんの命日でした。1930年、長野県生まれ。早稲田大学文学部露文科卒。ラジオ東京(現在のTBSテレビ)に入社し、ラジオそしてテレビ番組の制作に携わります。
やがて1970年に仲間と共に日本初の番組制作会社テレビマンユニオンを創立。数々のプロデュースを行っていきます。その仕事はテレビの枠を超え、幅広い文化の創造に寄与するものでした。
亡くなったのは2001年、享年71。
没後13年を機に、プロデューサー萩元晴彦の軌跡をふり返り、そして次代に伝えたいと思います。
没後13年
稀代のプロデューサー「萩元晴彦」小伝
最終回
集大成――長野冬季オリンピック開・閉会式の制作
かつて赤坂にあったテレビマンユニオンの本社に、劇団四季の浅利慶太が萩元を訪ねて来たのは、1995(平成7)年4月のことだ。3年後に開催される長野冬季オリンピックの開閉会式総合プロデューサーに就任した浅利は、この席で萩元に協力を依頼する。
「オリンピックの開閉会式は、テレビを通じて世界の何十億という人が観る。会場でどう見えるかも大事だが、完成形はブラウン管の中だと思っている。だから、萩さんの助けが必須なんだ」。浅利は古くからの友人らしく率直に語った。
萩元は快諾し、2人はその場で、後に「総合プロデューサーチーム」と呼ばれることになるメンバーの人選に入った。
翌年、正式に発表された名前は以下の通りだ。総合プロデューサー:浅利慶太、シニアプロデューサー:萩元晴彦、音楽アドバイザー:小澤征爾、イメージ監督:新井 満(芥川賞作家)、映像監督:今野 勉。
それぞれのジャンルの第一人者が集まり、一つの国家的イベントを創り上げていく。それは、萩元がこれまで築いてきたテレビプロデューサー、音楽プロデューサーとしてのキャリアを集大成したような、まさに「プロデューサー」冥利に尽きるプロジェクトだった。
1996(平成8)年の夏、萩元は米国アトランタのスタジアムにいた。総合プロデューサーチームのメンバーと共にアトランタ五輪の開会式を視察に来ていたのだ。
真夏のアトランタは暑い。夜になり、開会式が始まっても気温は下がらない。汗だくのまま観客席にいる萩元たちの目の前では、まるでラスベガスのショーのような、華やかなアトラクションが延々と繰り広げられていた。
やがて会場内が静まり、照明が変わった。すると、スタジアムの上段からトラックまでをつなげた巨大なスロープを、選手たちがどっと降りてきた。場内が大きな歓声と拍手でいっぱいになる。ようやく“本編”が始まったのだ。
実はこの開会式の最中に、ある国のコーチが心臓発作で亡くなるという事故が起きた。猛烈な蒸し暑さの中、選手団はアトラクションが終わるまでの長い時間スタジアムの外で待たされた。そして、いざ入場となると、階段を駆け上がり、次に斜面を一気に下り降りた。これが心臓にきたという。
「開会式の主役は世界から集まってくれた選手たち。彼らを大切にしない開会式は駄目です。観客を楽しませることが開会式の目的ではありません」。帰国後、最初のミーティングで萩元はそう発言した。
続けて「私たちはアナザーウエイ(別の道)を行くべきです」と。結果、長野五輪はアトランタを“反面教師”とした、「簡素で、厳粛で、精神性の高い」開会式を目指すことになったのだ。
1998(平成10)年2月7日、午前11時。長野冬季オリンピック開会式の本番開始を、萩元は会場であるスタジアムの制作関係者席から見守っていた。善光寺の鐘で始まり、諏訪の御柱が立ち、力士の先導によって選手たちが登場する。そして、横綱土俵入り、聖火ランナー入場とプログラムが続いていく・・・。
善光寺の鐘や御柱は、開催地である長野市や信州をアピールしたものだ。相撲は日本の国技であり、この国でスポーツの祭典が行われることの象徴だった。これらローカル(長野)、ナショナル(日本)の次のイメージは、オリンピックらしくインターナショナル(世界)ということになる。
ベートーベンの「第九・歓喜の歌」を、世界五大陸の合唱団が、長野にいる小澤征爾のタクトに合わせて、同時生中継で歌う。これこそ萩元たちが構想したインターナショナルな山場だった。
このプログラムの実現には、世界各地との時差という大問題があった。萩元たちは、この解決をNHK技術研究所に依頼。技研は「タイムラグ・アジャスター」と呼ばれる装置を開発して、これに応えてくれた。
見事、五大陸と長野がつながって、世界規模の大合唱が聞こえてきたとき、萩元の脳裏には、亡き父・隼人のことが浮かんでいた。それは1838(昭和13)年、新宿の武蔵野館で、父に肩車をしてもらいながらベルリン・オリンピックの記録映画『民族の祭典』(監督:レニ・リーフェンシュタール)を観たときの光景だった。
その鮮烈な映像美と共に、スポーツの素晴らしさ、人間の肉体の美しさに感動していた八歳の萩元。一方、満員の映画館、しかも肩車だったから、父とつないでいた手はずっと汗ばんだままだ。少年のどこかやるせない想いは、長く萩元の記憶の底に残っていた。
後に萩元は開会式の制作当時を振り返って、こう述べている。「私は親父が良かったぞと言ってくれるような開会式と閉会式にしたいと思って仕事をしているのだ。・・・親父の手を握っているつもりなのである」。
世界をつなぎ、国境を越えた「第九」の合唱が続いていた。スタジアムの片隅、68歳の萩元の隣には、きっと息子の肩を抱く父の姿があったはずだ。
そして、静かなる熱狂へ
「あらゆる新しいこと、あらゆる美しいこと、あらゆる素晴らしいことは、一人の人間の熱狂から始まる」――それは晩年の萩元が好んで書き、また口にした言葉である。
1994(平成6)年に制作した札幌テレビ創立35周年記念ドラマは、世界的な彫刻家イサム・ノグチの生涯を描いたものだ。萩元はそのタイトルを『静かなる熱狂』としていた。人生の最後まで、創造の炎を燃やし続けた芸術家に、制作者としての自らの歩みを重ねたのかもしれない。
「熱狂の人」への思い入れは、最後の作品となったスペシャルドラマにも反映されている。選んだ原作は『聖(さとし)の青春』。難病と闘いながら、29年の短い生涯を生き抜いた天才棋士・村山聖A級八段の伝記である。
その生涯は純粋で激しく、哀しくて温かい。諦めずに己の道を究めようとした青年棋士を、萩元は優しい眼差しで描いた。1994(平成13)1月6日に放送されたこのドラマの共同プロデューサーは、松本深志高校(萩元は旧制松本中学)の後輩にあたる合津直枝(深志24回卒)である。
個人史がそのまま日本の放送史、文化史となるような萩元の足跡をたどるとき、萩元晴彦自身が紛れもない「熱狂の人」だったことが分かる。そして、その熱狂は、ジャンルを問わず「何ものかを生み出す人々」に伝播し、これからも受け継がれていくはずだ。
2001(平成13)年9月4日、時代の最前線を悠々と疾走し続けた71歳の熱狂の人は、ひとり静かな眠りの中に入っていく。
10日後に行われた葬儀の会場は、萩元が精魂を傾けて育てたカザルスホールだった。
この日、萩元の盟友・小澤征爾は、「サイトウ・キネン・フェスティバル」が開催されていた松本から駆けつけ、遺影に呼びかけた。
「萩さん。今朝、僕は、萩さんが大好きだった深志高校へ通った道を、萩さんのお葬式に出るために、歩いて来たんだよ・・・」
そう言って、小澤は泣き出した。
(完 文中敬称略)
<参考文献>
今野 勉 『今野勉のテレビズム宣言』 フィルムアート社 、1976
今野 勉 『テレビの青春』 NTT出版、2009
重延 浩 『テレビジョンは状況である〜劇的テレビマンユニオン史』
岩波書店、2013
テレビマンユニオン:編 『テレビマンユニオン史1970―2005』
テレビマンユニオン、2005
萩元晴彦 『赤坂短信』 創世記、1976
萩元晴彦 『甲子園を忘れたことがない』 日本経済新聞社、1981
萩元晴彦 『萩元晴彦著作集』 郷土出版社、2002
萩元晴彦、村木良彦、今野 勉
『お前はただの現在にすぎない〜テレビになにが可能か』
田畑書店、1969/朝日文庫、2008
深志人物誌編集委員会:編 『深志人物誌3』
松本深志高等学校同窓会、2008
村木良彦
『ぼくのテレビジョン〜あるいはテレビジョン自身のための広告』
田畑書店、1971
村木良彦 『創造は組織する―ニューメディア時代への挑戦』
筑摩書房、1984
9月4日は萩元晴彦さんの命日でした。1930年、長野県生まれ。早稲田大学文学部露文科卒。ラジオ東京(現在のTBSテレビ)に入社し、ラジオそしてテレビ番組の制作に携わります。
やがて1970年に仲間と共に日本初の番組制作会社テレビマンユニオンを創立。数々のプロデュースを行っていきます。その仕事はテレビの枠を超え、幅広い文化の創造に寄与するものでした。
亡くなったのは2001年、享年71。
没後13年を機に、プロデューサー萩元晴彦の軌跡をふり返り、そして次代に伝えたいと思います。
没後13年
稀代のプロデューサー「萩元晴彦」小伝
最終回
集大成――長野冬季オリンピック開・閉会式の制作
かつて赤坂にあったテレビマンユニオンの本社に、劇団四季の浅利慶太が萩元を訪ねて来たのは、1995(平成7)年4月のことだ。3年後に開催される長野冬季オリンピックの開閉会式総合プロデューサーに就任した浅利は、この席で萩元に協力を依頼する。
「オリンピックの開閉会式は、テレビを通じて世界の何十億という人が観る。会場でどう見えるかも大事だが、完成形はブラウン管の中だと思っている。だから、萩さんの助けが必須なんだ」。浅利は古くからの友人らしく率直に語った。
萩元は快諾し、2人はその場で、後に「総合プロデューサーチーム」と呼ばれることになるメンバーの人選に入った。
翌年、正式に発表された名前は以下の通りだ。総合プロデューサー:浅利慶太、シニアプロデューサー:萩元晴彦、音楽アドバイザー:小澤征爾、イメージ監督:新井 満(芥川賞作家)、映像監督:今野 勉。
それぞれのジャンルの第一人者が集まり、一つの国家的イベントを創り上げていく。それは、萩元がこれまで築いてきたテレビプロデューサー、音楽プロデューサーとしてのキャリアを集大成したような、まさに「プロデューサー」冥利に尽きるプロジェクトだった。
1996(平成8)年の夏、萩元は米国アトランタのスタジアムにいた。総合プロデューサーチームのメンバーと共にアトランタ五輪の開会式を視察に来ていたのだ。
真夏のアトランタは暑い。夜になり、開会式が始まっても気温は下がらない。汗だくのまま観客席にいる萩元たちの目の前では、まるでラスベガスのショーのような、華やかなアトラクションが延々と繰り広げられていた。
やがて会場内が静まり、照明が変わった。すると、スタジアムの上段からトラックまでをつなげた巨大なスロープを、選手たちがどっと降りてきた。場内が大きな歓声と拍手でいっぱいになる。ようやく“本編”が始まったのだ。
実はこの開会式の最中に、ある国のコーチが心臓発作で亡くなるという事故が起きた。猛烈な蒸し暑さの中、選手団はアトラクションが終わるまでの長い時間スタジアムの外で待たされた。そして、いざ入場となると、階段を駆け上がり、次に斜面を一気に下り降りた。これが心臓にきたという。
「開会式の主役は世界から集まってくれた選手たち。彼らを大切にしない開会式は駄目です。観客を楽しませることが開会式の目的ではありません」。帰国後、最初のミーティングで萩元はそう発言した。
続けて「私たちはアナザーウエイ(別の道)を行くべきです」と。結果、長野五輪はアトランタを“反面教師”とした、「簡素で、厳粛で、精神性の高い」開会式を目指すことになったのだ。
1998(平成10)年2月7日、午前11時。長野冬季オリンピック開会式の本番開始を、萩元は会場であるスタジアムの制作関係者席から見守っていた。善光寺の鐘で始まり、諏訪の御柱が立ち、力士の先導によって選手たちが登場する。そして、横綱土俵入り、聖火ランナー入場とプログラムが続いていく・・・。
善光寺の鐘や御柱は、開催地である長野市や信州をアピールしたものだ。相撲は日本の国技であり、この国でスポーツの祭典が行われることの象徴だった。これらローカル(長野)、ナショナル(日本)の次のイメージは、オリンピックらしくインターナショナル(世界)ということになる。
ベートーベンの「第九・歓喜の歌」を、世界五大陸の合唱団が、長野にいる小澤征爾のタクトに合わせて、同時生中継で歌う。これこそ萩元たちが構想したインターナショナルな山場だった。
このプログラムの実現には、世界各地との時差という大問題があった。萩元たちは、この解決をNHK技術研究所に依頼。技研は「タイムラグ・アジャスター」と呼ばれる装置を開発して、これに応えてくれた。
見事、五大陸と長野がつながって、世界規模の大合唱が聞こえてきたとき、萩元の脳裏には、亡き父・隼人のことが浮かんでいた。それは1838(昭和13)年、新宿の武蔵野館で、父に肩車をしてもらいながらベルリン・オリンピックの記録映画『民族の祭典』(監督:レニ・リーフェンシュタール)を観たときの光景だった。
その鮮烈な映像美と共に、スポーツの素晴らしさ、人間の肉体の美しさに感動していた八歳の萩元。一方、満員の映画館、しかも肩車だったから、父とつないでいた手はずっと汗ばんだままだ。少年のどこかやるせない想いは、長く萩元の記憶の底に残っていた。
後に萩元は開会式の制作当時を振り返って、こう述べている。「私は親父が良かったぞと言ってくれるような開会式と閉会式にしたいと思って仕事をしているのだ。・・・親父の手を握っているつもりなのである」。
世界をつなぎ、国境を越えた「第九」の合唱が続いていた。スタジアムの片隅、68歳の萩元の隣には、きっと息子の肩を抱く父の姿があったはずだ。
そして、静かなる熱狂へ
「あらゆる新しいこと、あらゆる美しいこと、あらゆる素晴らしいことは、一人の人間の熱狂から始まる」――それは晩年の萩元が好んで書き、また口にした言葉である。
1994(平成6)年に制作した札幌テレビ創立35周年記念ドラマは、世界的な彫刻家イサム・ノグチの生涯を描いたものだ。萩元はそのタイトルを『静かなる熱狂』としていた。人生の最後まで、創造の炎を燃やし続けた芸術家に、制作者としての自らの歩みを重ねたのかもしれない。
「熱狂の人」への思い入れは、最後の作品となったスペシャルドラマにも反映されている。選んだ原作は『聖(さとし)の青春』。難病と闘いながら、29年の短い生涯を生き抜いた天才棋士・村山聖A級八段の伝記である。
その生涯は純粋で激しく、哀しくて温かい。諦めずに己の道を究めようとした青年棋士を、萩元は優しい眼差しで描いた。1994(平成13)1月6日に放送されたこのドラマの共同プロデューサーは、松本深志高校(萩元は旧制松本中学)の後輩にあたる合津直枝(深志24回卒)である。
個人史がそのまま日本の放送史、文化史となるような萩元の足跡をたどるとき、萩元晴彦自身が紛れもない「熱狂の人」だったことが分かる。そして、その熱狂は、ジャンルを問わず「何ものかを生み出す人々」に伝播し、これからも受け継がれていくはずだ。
2001(平成13)年9月4日、時代の最前線を悠々と疾走し続けた71歳の熱狂の人は、ひとり静かな眠りの中に入っていく。
10日後に行われた葬儀の会場は、萩元が精魂を傾けて育てたカザルスホールだった。
この日、萩元の盟友・小澤征爾は、「サイトウ・キネン・フェスティバル」が開催されていた松本から駆けつけ、遺影に呼びかけた。
「萩さん。今朝、僕は、萩さんが大好きだった深志高校へ通った道を、萩さんのお葬式に出るために、歩いて来たんだよ・・・」
そう言って、小澤は泣き出した。
(完 文中敬称略)
<参考文献>
今野 勉 『今野勉のテレビズム宣言』 フィルムアート社 、1976
今野 勉 『テレビの青春』 NTT出版、2009
重延 浩 『テレビジョンは状況である〜劇的テレビマンユニオン史』
岩波書店、2013
テレビマンユニオン:編 『テレビマンユニオン史1970―2005』
テレビマンユニオン、2005
萩元晴彦 『赤坂短信』 創世記、1976
萩元晴彦 『甲子園を忘れたことがない』 日本経済新聞社、1981
萩元晴彦 『萩元晴彦著作集』 郷土出版社、2002
萩元晴彦、村木良彦、今野 勉
『お前はただの現在にすぎない〜テレビになにが可能か』
田畑書店、1969/朝日文庫、2008
深志人物誌編集委員会:編 『深志人物誌3』
松本深志高等学校同窓会、2008
村木良彦
『ぼくのテレビジョン〜あるいはテレビジョン自身のための広告』
田畑書店、1971
村木良彦 『創造は組織する―ニューメディア時代への挑戦』
筑摩書房、1984