慶應義塾の「三田評論」、その最新号が発行されました。
「テレビ60年とこれから」という特集が組まれ、「テレビに未来はあるか」をテーマにした座談会に参加しています。
私以外の参加者は以下の通りです。
評論家
宇野常寛さん
日本テレビ情報カルチャー局担当副部長
三枝孝臣さん
NHK報道局
報道番組センター社会番組部チーフ・プロデューサー
倉又俊夫さん
立教女学院短期大学特任教授、慶應義塾大学名誉教授
萩原 滋さん
この座談会では、たとえば、こんな話をしています・・・・
萩原 碓井さんは制作の現場も経験なさっていて、いま大学で教えられていていますが、この十年の変化は、どのように感じていらっしゃいますか。
碓井 この十年を宇野さんは、ずばり「斜陽」という言葉で表現されましたが、視聴者にとってのテレビの位置づけ、優先順位が明らかに変わってきた。これが一番大きいと思うんです。
テレビ放送が始まって今年で六十年ですが、まだ僕が生まれてしばらくまでは、映画というものが結構大きく存在していました。でも毎日家でテレビが見られるようになると、順位の交代が起きましたよね。そういう意味では、今、新たな入れ替わりが進行しているわけです。ただそのことをテレビの送り手側はなかなか認めてこなかった。つまり、「まだいけるだろう」と思っていたし、思いたかった。
なぜならテレビというのは、基本的には六十年前と同じビジネスモデルでずっとやってきているわけです。それがリアルタイム視聴を前提とした広告収入で、これは六十年間ほぼ変わっていない。しかし実際は、宇野さんがおっしゃるように、タイムシフトと呼ばれる録画視聴をはじめテレビの見方が変わってきたし、優先順位も変わってきている。
「娯楽」と「情報」の劣化
碓井 テレビには大きく娯楽と情報の二つの要素があると思うんですね。テレビはかつて「娯楽の王様」とも言われていましたが、まず、その娯楽の部分を自ら劣化させていった。
それからもう一つの情報においても、これは東日本大震災と原発事故が大きかったと思いますが、三・一一をきっかけに「テレビは情報をきちんと伝えてないのではないか」という不信感が広がりました。ある意味、ばれてしまったと言えるかもしれません。
それ以前から、いわゆる「不祥事」というかたちで、繰り返しテレビについての問題が起きていました。本来白じゃないものを黒だと言っているとか、やらせの問題も含めてですが、そういった情報の部分でも、「本当かな、何か違うらしいよ」ということを、見る側も感じるようになってきた。
娯楽と情報というテレビの両輪が、それぞれ少しずつ劣化していった十年ではないかと思うんですね。そこに、新しいメディアが出てきて、人の関心がどんどん動いてきている。テレビというメディアも、まさにデジタルメディアのあくまでもワン・オブ・ゼムになってきた。
しかし、そのリアルな現実をあまり見ないようにして、とりあえず自分たちに都合のいい商売になっているわけだからと、今までどおりに続けてきた。そして、宇野さんから「斜陽です」と言われてしまう状況に立ち至ったということですね。
(三田評論 2013年6月号)
全体は、ぜひ本誌をご覧ください。